2015年5月12日火曜日

百日紅 Miss HOKUSAI

(Miss Hokusai)

 杉浦日向子の同名の文芸漫画をアニメ化したものです。江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎の娘、お栄を中心に描く時代劇です。
 杉浦日向子と云えば『ガロ』系の漫画家さんで、馴染みの薄かった人ですが──間違っても「萌え」とは無縁の絵柄でしたし──、既にお亡くなりになっていたとは存じませんでした(2005年7月22日逝去)。江戸風俗研究家としても有名な方だったそうで、そんな方の描く作品の時代考証は、かなり正確と思ってよろしいでしょう。

 本作はそれを忠実に映像化しているようで、かなり文芸的なアニメ作品になっています。非常に詳細な江戸の風俗描写が素晴らしく、私の知人は本作を「江戸東京博物館で常時上映していても違和感ナシなくらいだ」と評しておりました(と云うか、私もそうして欲しい)。
 日本史の教材としてもかなり有益なのではないか。ちょっと青少年には刺激が強そうな場面もなきにしもあらずですけど。

 監督は原恵一。まず真っ先に『クレヨンしんちゃん』の、とか云ってしまうのですが、『河童のクゥと夏休み』(2007年)や、『カラフル』(2010年)の監督でもありますね。実写作品に『はじまりのみち』(2013年)がありますが未見です(汗)。
 出演は、杏、松重豊、濱田岳、高良健吾、美保純といった俳優さん達ですが、特に違和感は感じられませんでした。ドラマがごく普通の時代劇で、実写映画にしても全く差し支えない造りだからでしょうか(差し支えないけど、本当に実写化したらその手間と制作費はアニメの比では無いでしょうが)。

 主人公、お栄役が杏。以下、父である葛飾北斎役が松重豊、北斎の弟子の善治郎(後の渓斎英泉)役が濱田岳。
 ライバル門下の絵師、歌川国直役が高良健吾、北斎の妻こと役が美保純と、主要キャストは皆さん舞台やドラマの俳優さんばかり。
 辛うじて脇役の方に、麻生久美子とか、入野自由、矢島晶子、藤原啓治といった馴染みの声優さんもおりますが、あまり出番があるとは云い難い(それほど大きな役でもないし)。

 本作に於ける江戸──劇中では文化十一年(1814年)と表示されます──の風俗描写は大変詳細かつ丁寧で、背景美術も美しく、季節折々の自然の描写が素晴らしいデス。
 美術監督の大野広司は、近年だと沖浦啓之監督の『ももへの手紙』(2012年)、細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』(同年)の美術監督も務めておられますね。
 冒頭から、両国橋を行き交う雑踏の描写が実に印象的でした(この両国橋のシーンは圧巻です)。

 時代考証や風俗描写は、日本人が観ても興味深いのですが、こういう場面は外人にはもっとアピールするような気がします。決して日本にはサムライとニンジャとゲイシャしかいなかった訳では無いのデス。本作にはサムライはちらりとしか登場しません。ニンジャなんて影も形もいない。あ、でもゲイシャは出てきますね。
 劇中に登場する吉原の風俗描写は実に興味深い。華やかな花魁がまた美しく描かれております。

 江戸情緒のリアルな描写は、宮地昌幸監督の『伏 鉄砲娘の捕物帳』(2012年)などと比較してみると面白いかも知れません。あちらは時代考証よりもイメージ優先な描写でした(特に吉原が)。
 ストーリーの時代的にも同じ頃ですね。葛飾北斎と曲亭馬琴は面識もあった同時代の人らしいですし、本作の劇中にも北斎が馬琴のことに言及する台詞があります。

 ところで、原作の題名が『百日紅』になので仕方が無いとは思いますが、本作だけ観る限りでは、題名に『百日紅』と付ける理由があまり見当たりませんです。原作のコミックス(ちくま文庫)については、何かの折に目にした程度で、とても「読んだ」と呼べるようなものではありませんので、何か意味があったとしても私には判りませんデス(汗)。
 一応、ドラマの開幕早々、「百日紅が咲き始めた」と云うお栄の台詞がありまして、季節的にも夏の到来を感じさせる場面でしたので、てっきりこれは「文化十一年の夏の物語」なのだろうと思っていました。

 サルスベリの開花時期は七月から一〇月くらいなのだそうな(やっぱり「百日」って云うくらいですから三ヶ月くらいか)。
 だからドラマも、夏の始まりから秋が深まるくらいの期間であろう。きっとドラマのラスト近くで百日紅が散り始めるのではないか……。
 なんて勝手に考えておりますと、劇中では季節がどんどん移り変わっていきます。
 晩秋を迎え、冬になり、年を越しちゃって、雪が積もって、やがて春が到来する。もはや百日紅の開花時期とドラマの展開は、まったく無関係であります。

 さらにドラマ上では季節が移り変わり、また夏がやって来る。
 してみると、これは一年間のドラマなのか。百日紅が咲き始めた頃に始まり、そして季節が巡って、また百日紅が咲く頃に終わる。なるほど、それなら『百日紅』でもいいか。
 ところがこの予想も裏切られ、さらに季節は二回目の秋になり、冬を迎え……。
 結局、一年半から二年近い期間がドラマとして描かれております(しかもエンディングで一気に数十年は経過してしまうし)。百日紅がストーリー上に関係してくることはありません。

 百日紅に関しては、序盤の「咲き始めたねえ」と云う台詞だけ。
 うーむ。サルスベリの花言葉──「雄弁」、「愛嬌」、「不用意」──ともあまり関係なさそうだし。そもそも江戸時代だから花言葉は関係ないか。
 何故、百日紅なのか、是非知りたいものデス。やっぱり原作読まないとダメかな。
 但し、本作には季節の表現として、サルスベリ以外にも折々の花々が描かれており、これは実に美しかったです。冬の椿、夏の鬼灯、特に「春だから桜」なんてオーソドックスな描写にはせず、木蓮を描いていたのが個人的には気に入りました。

 そのように作画は大変美しく、また詳細かつ丁寧で、見た目は本当に素晴らしいのデスが。
 実はストーリーの方は非常に単調で、特に山場らしい山場も無く、淡々としたまま終わってしまったのが、唯一の不満です。元より原作がそうなのだから、これも仕方が無いのでしょうか。
 短いエピソードの連なりで進行していくドラマですが、個々のエピソードに関連がほとんどありません。何かの伏線になるのかと思わせてながら、特に関連は見受けられません。
 淡々としたまま進行し、淡々としたまま終わってしまう。あまりエンタメ的な内容ではありません。まさに「文芸的」でありまして、その意味ではヨーロッパ映画のような趣であります。
 きっと本作はフランスあたりで受けるのではないか(カンヌ映画祭あたりに出品すればいいのに)。

 冒頭から、お栄のナレーションでドラマが進行していきます。娘の視点から描いておりますので、葛飾北斎も「偉大な絵師」と云うよりも、奇人変人、無愛想な頑固者として語られております。
 既に北斎も五五歳。それなりに名も売れ、「先生」と呼ばれておりますが、暮らし向きは実に質素で、あまり儲かっているようには見えません。
 父一人、娘一人、ついでに弟子が一人の三人で粗末な長屋暮らし。部屋は散らかり放題で、誰も片付けようとはしておりません。お栄も「女性だから」と炊事洗濯を……しているわけでは全く無い。ゴミ屋敷の一歩手前な状態です。
 史実でも、北斎は家が散らかってくると、片付けるよりも先に転居したそうで、このあたりもリアルな描写ですね。

 しかし年頃の娘と、若い弟子が、父親も含めて三人で雑魚寝していると云うのは如何なものか。お栄の方も相当な変人のようです(やっぱり父親に似たのでしょうねえ)。色気も無く、絵描き一筋、ほとんど男と同じような生活です。
 北斎は妻とは別居しているようで、実家の方にはさっぱり足を向けません。お栄が顔を見せに寄っているので、辛うじて接点が保たれているような有様です。
 実はこの家には北斎の末の娘、お猶(清水詩音)がいて、北斎はそれを避けているのだとお栄は信じている。病弱な上に目が不自由な少女を、子役の清水詩音が演じておりますが、なかなか演技も達者であります。

 お栄とお猶の姉妹のエピソードが随所に挿入され、なかなか微笑ましいです。ガサツで男のようなお栄も、妹の前ではちゃんと「お姉さん」になっている。
 よく判らないのは、父親である北斎がお猶にさっぱり会いに行こうとしないことです。幼い少女が父親に会いたがっていると云われても、言を左右にして逃げている。その所為で実の娘から「弱虫」と罵られております。
 しかし劇中では、北斎がお猶を避ける理由が明確にはなりませんでした。
 病弱で失明している末娘の健康状態に責任を感じているのか、単に病が怖くて近づけないのか(だとすると相当なヘタレですが)。劇中で、北斎の内面を伺い知るような演出が無いのが残念でした。

 北斎の家族関連のエピソードも随所に現れますが、他のエピソードと関連することはありません。関連付けられるのに、敢えてそうしていないようにも思えます。
 「末娘が病弱である」と云う設定がある一方で、ちょっとファンタスティックなエピソードがあります。
 ファンタスティックと云うよりも、怪談めいたエピソードですね。「吉原の花魁が幽体離脱する」とか、「お栄の描いた地獄絵が真に迫りすぎて、商家の奥方が幻覚に苛まれる」とか、何となく不吉な匂いのするエピソードがあって、かなり「死」とか「死後の世界」とか連想させております。
 更に、「菩薩による救済」とか、「死後に備えて功徳を積むちょっと変わった商売」についても描かれているところがある。

 しかしこれらが「病弱な末娘の容態が悪化し、薄幸な少女が短い生涯を終える」エピソードと何か関係するわけでは、全くありませんでした。また、末娘の死によって、何か北斎の家族関係が変化するわけでもない。
 まぁ、史実を曲げるわけにも行かないのでしょうが、あまりにも淡々とし過ぎていて、物足りなくもあります。哀しいエピソードではありますが、大泣きするほどでもない。
 関連するのは、これによってお栄の画風がちょっと変化する、くらいでしょうか。

 劇中では、絵は巧いが父親の模倣の域を出ていないとか、男性経験が無いので春画を描いてもリアリティが無いとか、自分の画風を確立するべきだなどと語られるエピソードがあります。
 その一方で、火事場見物が大好きで、ガサツで男勝りのお栄が淡い恋心を抱くようなエピソードもあります(アッと云う間に玉砕しますが)。意を決して男性経験を積みに吉原へ突入するも思ったような展開にはならず、世界がガラッと変わって見える……ようにもならなかったですね(ちょっと変わったか)。

 そういった個々のエピソードは、その正確な時代考証や風俗描写もあって興味深くもあるのですが、これらが絡み合い、最後に「妹の死」を乗り越えたお栄が、遂に一人の絵師としてスタイルを確立するに至る……ところに関係してくるようには感じられません(そういう演出でもないし)。
 淡々として、たゆたうように鑑賞するのが正しいのでしょう。うーむ。作画は本当に見事で美しいのですけどね。




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