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2016年8月18日木曜日

ジャングル・ブック

(The Jungle Book)

 ラドヤード・キプリングによる同名小説の映画化ですが、既に何度かアニメや実写で映画化されておりますね。一番、有名なのはディズニー製作のアニメ映画『ジャングル・ブック』(1967年)でしょう。これが最初だし、元祖ですね。日本でも名作劇場風にTVシリーズ化されたこともありますけど、あまり憶えていないデス。
 本作はその元祖ディズニー製アニメ『ジャングル・ブック』の実写リメイク作品です。

 実は実写版としては、スティーヴン・ソマーズ監督による『ジャングル・ブック』(1994年)が先にありますので、本作は二度目の実写映画化と云うことになります。しかし元祖アニメ版に忠実なのは本作の方でしょう。
 本作は原作小説よりも、元祖アニメ版がどうであったかを重視しているように思われました。その点では、ソマーズ監督版よりもリメイクの完成度が高いと申せましょう(そもそもソマーズ監督版は「リメイク」ではなかったような)。

 キプリングの原作小説を読んでないので、「インドのジャングルの中で、豹に拾われた孤児がオオカミの群れの中で育ち、危険な目に遭いながらも、やがて成長して人間の社会に帰って行く」くらいの大筋しか存じませんのですが。
 だから本作がどの程度、原作に忠実な映像化なのかは語ることが出来ません。
 そもそもキプリングのことをよく知らないし。ノーベル文学賞作家であるとか、『ジャングル・ブック』以外にも『少年キム』、『プークが丘の妖精パック』なんてのが翻訳されているのは存じておりますが、書籍として見かけはしたが読むところまでには至らない。
 あくまでもウォルト・ディズニーの遺作となった元祖アニメ版と比較してのハナシです。

 ソマーズ監督版の『ジャングル・ブック』が元祖アニメ版のリメイクではないと感じるのは、モーグリ役がジェイソン・スコット・リーだったりした所為もありますね。もうこれだけで、ナニやら『ターザン』のパロディのように感じられたものでした。
 ホントは『ターザン』の作者エドガー・ライス・バロウズの方が、キプリングの著作に着想を得ておるのですが……。
 やはりモーグリは少年でなければならんか(幼少時のアニメの刷り込みは偉大だ)。
 他にもソマーズ監督版では、サム・ニールやレナ・ヘディといった方々も出演されていて、専ら人間側のドラマが重視されていたように思われますが、本作では「人間」なのはほぼモーグリ少年のみであるという潔さです。

 本作の監督はジョン・ファブロー。SF者としては、スティーヴン・ソマーズ監督作品よりも、ジョン・ファブロー監督作品の方にSF的なセンスを感じて軍配を上げたいです(いや、本作はSFじゃないですけど)。
 まぁ、『ザ・グリード』(1998年)や『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』(1999年)も悪くは無いが、『ザスーラ』(2005年)や『アイアンマン』(2008年)の方がより好ましいという個人的な感想です。

 さて、何故か今年(2016年)は『ジャングル・ブック』と『ターザン』が同時に復活して公開されるということになりました。別に示し合わせたわけでもあるまいに、ハリウッドは妙なところでシンクロしますね。
 どちらも動物をリアルなCGで表現して実写の俳優と合成して共演させるという、半ばアニメのような造りです。この「密林映画対決」は公開前からちょっと楽しみにしておりました。
 結論から申し上げると、どちらも甲乙付け難い。

 しかしデヴィッド・イェーツ監督の『ターザン : REBORN』(2016年)の方がシリアス路線であるのに対して、本作は思いっきりファンタジーな方向へ舵を切っております。そもそも描き方が対極的なので、どっちが良いとも云い難いものがあります。
 本作ではリアルな動物達が人語を話したり、歌ったりしております。まさに元祖ディズニー・アニメの再来です。これは見事でした。

 使用される歌曲も馴染み深いシャーマン兄弟の歌曲ですよ。本作の音楽はジョン・デブニーですが、劇中ではシャーマン兄弟の歌曲も巧みに取り入れております。
 ちゃんと熊のバルーがモーグリ少年を腹の上に載せて泳ぎながら「本当に大切なもの(“The Bare Necessities”)」を歌いますし、オランウータンのキング・ルーイも手下のサル共を従えて「君のようになりたい(“I Wanna Be Like You”)」を歌ってくれます。

 「毛並みや皮膚の質感も実物そのもののような動物」が、歌って踊ると云うのが素晴らしい。おまけに本作は、背景もほぼ全てCGであるそうな。
 主人公のモーグリ少年(ニール・セティ)は、常にブルーバックの前で演技していたそうですが、違和感がまったく仕事をしておりませんデス。重箱の隅をつつけば、合成ぽい場面も無いわけでは無いが、些細なことでしょう。

 動物が少年と当たり前のように会話する作品ですので、本作では動物のキャラクターに有名俳優の声の出演が配されております。
 まずは熊のバルーが、ビル・マーレー(この配役が一番、納得です)。
 黒豹のバギーラが、ベン・キングズレー。
 虎のシア・カーンが、イェドリス・エルバ。
 ニシキヘビのカーが、スカーレット・ヨハンソン。
 オランウータンのキング・ルーイが、クリストファー・ウォーケンです(これが特筆もの)。

 熊のバルーにツッコミを入れるチョイ役のイノシシをファヴロー監督が吹き替えていたり、一緒に登場したリスをサム・ライミが演じていたりしますが、これは楽屋落ちですね。
 先述のとおり、人間はほぼモーグリ少年役のニール・セティ以外には登場しません。回想シーンでモーグリ少年の父親が出てきたり、遠目に見る人間の集落に数人の村人が映る程度です。台詞もないし。
 動物主体のドラマに、一人だけ人間の子供が紛れているという描かれ方です。

 暢気な熊がビル・マーレーの声で調子の良い言葉を連発するのも楽しいし、堅物の黒豹がベン・キングズレーの声で真面目くさって説教垂れるのも微笑ましいデス。特にこいつらはコンビを組んでからが本領ですね。
 獰猛な虎がイェドリス・エルバの声で凄みを漂わせすぎなのもいいとして、元祖アニメ版では男性だったニシキヘビが女性になっていたのが意外でした。
 スカーレット・ヨハンソンの大蛇が神秘的です。ここでも「信じて欲しい(“Trust in Me”)」の歌曲が使われますが、人間を丸呑みにしようとしているのに、その歌詞はちょっと怖い。
 大蛇カーが催眠術をかけるときに目玉を光らせるところもそのまんまなのが笑えます。

 このあたりまでは動物の映像に俳優が声を付けている感じで、割とアニメ的ですね。
 まぁ、俳優の表情の演技をモーションキャプチャで取り込んで動物の表情に反映させても限界がありますわな。黒豹の顔はどうやってもベン・キングズレーには見えませんし、熊の顔もビル・マーレーには見えません。いや、想像力を酷使すれば、面影が残っているように見えなくもないか。
 特に熊のバルーはちょっとだけビル・マーレーぽいですが、これはビル・マーレーの方が元からバルーぽいからなのかしら。配役の妙を感じますね(失礼な)。

 しかしキング・ルーイだけは違いますよ。類人猿ですからね。顔のパーツの配置が人間と似ているので、演じている「中の人」の面影がはっきりと現れています。
 本作では、クリストファー・ウォーケン似のオランウータンと云う、世にも珍しい生き物を拝むことが出来ました。瞳の色も青いままです(そんな猿がいるか)。
 本作では、「インドの密林にオランウータンは棲息していない」と云う事実に鑑み、「オランウータンに似た別の生き物」──巨大類人猿ギガントピテクス──なる設定の変更が行われておりますが、見た目は完全にオランウータンです。しかし通常のオランウータンの何倍も大きい。
 ぶっちゃけ、キングコングの親戚かと突っ込みたくなるほどに巨大です(怪獣の域に達してますね)。流石はサルの王。登場時の衝撃は元祖アニメ版を越えました。

 しかもそれが歌います。元祖でルイス・プリマが歌った楽しげなジャズナンバーが、本作ではかなり不気味にアレンジされております。
 アニメのオランウータンが人間に憧れて「君のようになりたいんだ」と歌うのは愛嬌がありますが、巨大類人猿が同じ歌を唄っても、受ける印象はガラリと変わりますね。巧い演出です。
 ここもクリストファー・ウォーケンが吹替なしで歌っているようです。流石は舞台ミュージカル出身。『ヘアスプレー』(2007年)でも歌って踊っておられましたが、まだまだお元気ですね。
 クリストファー・ウォーケンは若い頃にルイス・プリマと面識があったと語っていた記事がありましたが、尚のこと本作のキング・ルーイ役には感慨深いものがあったのでしょう。

 このキング・ルーイという、キプリングの原作小説には登場しない──インド暮らしの経験のあるキプリングが、インドの密林にオランウータンを登場させる筈も無いか──、ディズニー・オリジナルのキャラクターの実写化に一番、気合いを入れているように思われるところからも、リスペクトの比重がどちらに傾いているか判ろうというものでしょう(いいぞもっとやれ)。
 元祖アニメ版のDVDには映像特典として、当時の製作スタッフ達にインタビューしたメイキングが付いておりましたが、それによると「熊のバルー」ですら、原作小説では思慮深い性格だったのを、ウォルト・ディズニーが陽気なキャラクターに改変したと語られておりました。
 結構、ディズニーさんは大胆に(あるいは好き勝手に)改変しておったのですね(六〇年代は大らかだったのか)。

 サルの王でいるだけでは飽き足らず、ジャングルの支配者にまでのし上がろうという野望を持ったキング・ルーイが欲しているのが「火の扱い方」です。こればかりは人間でないと判らないので、モーグリ少年からその秘密を聞き出そうとします。
 野望を隠して、友好な態度を装いながら、「火を使いこなして人間のようになりたいんだ」と歌う巨大類人猿の図は、ちょっとしたホラーのようでもあります。

 でも、本作ではキング・ルーイはキングコング並みに巨大化してしまっているので、よく考えたら別に火は必要なかったのでは。あの体格をもってすれば、シア・カーンだって片手でひねり潰せるでしょうに。
 ファブロー監督には是非、キング・ルーイが正面から戦いを挑んで、シア・カーンを一撃の下に屠りさる対戦シーンを描いて戴きたかった。いや、それ『ジャングル・ブック』じゃないから。

 元祖アニメ版と大幅に変わっているのが、象のハティ大佐でしょう。象の群れを軍隊に見立てて、部下に号令しつつ行進して行くのがユーモラスでしたが、この部分だけは大幅に変更され、ゾウは一切喋らないことになりました。
 おかげで「ハティ大佐」とも呼ばれないし、そもそも軍隊ではなくなりました。ただ沈黙のうちに通り過ぎる象の群れは、他の動物達から畏敬と尊敬の念を向けられているのみです。
 しかし、黙ってモーグリ少年を見つめる象の眼には明らかに知性が宿っているように見える演出がお見事でした。

 何故か、『ターザン : REBORN』でも同様の演出が見受けられたのが興味深いです。やはり象とは高い知性を持ち、哲学者めいているのがイマドキのイメージなんですかね。それはアフリカゾウでもインドゾウでも変わらないもののようです。

 元祖アニメ版のメイキングによると、ウォルト・ディズニーは「キャラクターを立てることにのみ注力し、脚本は出来るだけにシンプルにする」と云う方針を貫いたそうです。その所為で、名作の誉れ高いアニメ映画ではありますが、今になって見直すとほとんどストーリーらしいストーリーが無かったことに驚かされます(シンプルすぎるわ)。
 ファブロー監督としては、現代的なリメイクとしてそれは如何なものかと思われたようで、本作にはウォルト・ディズニーなら削ったであろうドラマチックな要素が満載になりました。

 「シア・カーンが旅人を襲ってモーグリ少年が孤児になる」序盤の展開が復活しましたし、これによってシア・カーンとモーグリ少年の因縁が強調されておりますので、やはり正しい判断なのでしょう。
 また、シオニー丘のオオカミの群れとモーグリ少年の絆もしっかりと描かれ、シア・カーンとモーグリ少年の対決への流れがよりドラマチックになりました。
 ついでに火の扱いも派手になり、クライマックスの森林火災は迫力満点です(でもCG)。

 そして一件落着後のモーグリ少年の身の処し方もまた、元祖アニメ版とは大きく異なりました。原作でも、人間社会に復帰するのが結末だそうですが、本作ではモーグリ少年はジャングルに留まります。生まれてから過ごしてきた時間の長い家族や仲間との絆の方が大事なのであって、種族的な差異など些細なことであると云う、価値観の逆転がイマドキですね。
 人間は人間同士で暮らすのが一番だなどとは云わない。だから本作には、「人間の少女」なんてのも登場しません。時代の流れを感じるラストシーンでした。

 元祖アニメ版ではモーグリ少年を見送った後、熊のバルーと黒豹のバギーラが仲良く森に帰って行くのがラストでありまして、何となく『カサブランカ』(1942年)のラストシーンようなイメージがあったのですが、本作ではこれは無し。
 そして全ては一冊の本の中に納められると云うエンディング。エンドクレジットで再びカーテンコール式に各キャラクター達が本のページから飛び出してくるのが楽しい演出でした。
 キング・ルーイもしぶといな(あれしきで死ぬ筈無いと思ってましたともさ)。




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