2013年4月5日金曜日

塀の中のジュリアス・シーザー

(Cesare deve morire)

 イタリアの映画監督タヴィアーニ兄弟──ヴィトリオ(兄)とパオロ(弟)──による刑務所を描いたドキュメンタリー・タッチのドラマです。
 この兄弟は常に二人で監督し、脚本も自ら書かれるのだそうな。お二人とも八十路を越えてなお現役で、本作のような力強い作品を撮れるとは大したものです。

 タヴィアーニ兄弟には色々と受賞歴もあり、『父 パードレ・パドローネ』(1977年)では第三〇回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを、『サン★ロレンツォの夜』(1982年)でも第三五回カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリを受賞しております。
 そして本作は第六二回ベルリン国際映画祭において金熊賞を受賞しました。

 イタリアのローマ郊外に実在するレビッビア刑務所。その重警備棟は、重犯罪を犯した服役囚を収容しています。罪状は殺人、麻薬密売、組織犯罪などなど。いずれ劣らぬ重犯罪者ばかり。
 長期懲役者──刑期は二桁あるのが当たり前──、終身刑囚、更には死刑囚もいます。
 ここでは服役囚達による演劇実習が毎年行われています。これは囚人の更生プログラムの一環であるそうな。
 実際、この演劇実習を経て出所した者の中には、作家や俳優に転身した者もいるとか。
 この演劇実習はかなり本格的で、参加希望者はオーディションを受け、配役が決まれば練習を繰り返し、衣装もちゃんと用意され、最終的には刑務所内に仮設の劇場まで作り上げ、一般の観客を招いて公演が行われます。

 まずは冒頭、舞台で『ジュリアス・シーザー』が上演されているところから始まります。ラストシーンでブルータスがトレボニウスに自害を手伝ってもらう場面。
 役者も熱演しまくりで、ブルータスは悲劇的な最期を迎える。拍手喝采。
 そして上演終了後、観客が席を立って帰っていきますが、劇場の外には警官がやたらと配置されている。役者達も厳重な警備の中で、劇場を後にし、連れて行かれた先が監獄です。
 鉄の扉が重々しく閉まり、俳優達が実は囚人だったのだ……と云うところから、時を遡り、そもそもの始まりから描いていこうと云う趣向。
 また、舞台上の演劇はカラー映像でしたが、刑務所内での稽古の様子はモノクロ映像という演出もいい味を出しております。虚構の方がカラーで、現実はモノクロか。

 成功を収めた公演の六ヶ月前。刑務所長が、囚人達を集めて企画を発表します。次なる演し物は、ウィリアム・シェイクスピア作の『ジュリアス・シーザー』。
 そして参加希望者によるオーディションが刑務所内で行われます。この刑務所内劇団の舞台監督は、演劇実習に協力している本職の舞台監督ファビオ・カヴァッリ氏です。

 オーディションでは、各自が「自分の名前と生年月日、出身地」などを台詞の代わりに発声すると云う課題が出されます。
 最初は「哀しみを込めて」、次に「怒りを込めて」。演劇のオーディションのことはよく存じませんが、なかなか興味深いシチュエーションでした。しかもどいつもこいつも、芝居が巧い(何年も演劇実習に参加しているお陰か)。
 名前と生年月日を口にしているだけなのに、「その場に居ない家族に別れを告げる」シーンを自分で演出したりしております。ホントにこの人達、犯罪者なのかいな。
 アドリブを交えながら、ある者はユーモラスに、ある者はドスを効かせて、演技を披露しています。

 オーディションの後、配役が発表されますが、メインのキャストが凄いデス。各自がアップになり、役名と罪状と刑期が紹介されます。
 皆、不敵な面構えのオヤジばかりです。そりゃそうか。

 シーザー   麻薬売買     懲役一七年
 ブルータス  組織犯罪     懲役一四年八ヶ月
 カシウス   累犯および殺人  終身刑
 アントニウス 累犯       懲役二六年

 『ジュリアス・シーザー』ではありますが、刑務所内ではイタリア語が話されております(当然ね)ので、役名から台詞に至るまで「シーザー」ではなく「チェーザレ」と呼ばれております。『ジュリオス・チェーザレ』ですね。
 「チェーザレ」と云うと、イタリア史ではルネサンス期の人物、チェーザレ・ボルジアを想起してしまいますが──惣領冬実の『チェーザレ 破壊の創造者』なんてコミックスも読んでますし──、イタリアの人は「チェーザレ」と云うと、「シーザー(カエサル)」なのだそうな。
 逆にチェーザレ・ボルジアの方が「ヴァレンティーノ公」と呼ばれて区別されているとか。

 そして台本読みが始まり、各自が房の中でも独自に稽古を開始する。リハーサルで演技指導が入ると、自分の解釈でそれに応える人もいます。本物の劇団員さながらの稽古です。
 脚本を読みこなしながら、シェイクスピアの意図は判ったが、それを観客にどう伝えるかで悩んだりもします。
 稽古に熱中し、刑務所内で掃除当番に当たりながらも、廊下でモップを手にしながら台詞の練習をしたりもする。
 しかし参加する囚人は熱心ですが、刑務所内には参加しない囚人も居る。全員参加ではないから当然ですね。
 「のぼせ上がって道化になってやがる」なんぞと揶揄されていますが、そんな声も届かないくらい熱中しています。
 通し稽古は刑務所内の運動時間中に刑務所の中庭で行われますが、時間をオーバーしても続いている。看守達もつい引き込まれ、注意するよりもつい見物してしまう。

 しかし役作りに入れ込み、次第に稽古を離れても役から戻らなくなっていく者もいます。
 「正義は殺戮ではない。これは暗殺ではなく、神への供物なのだ」などと台詞を口にするブルータスですが、自分の過去の罪状がオーバーラップして、感情があふれ出してくる場面が印象的です。
 自分もブルータスのように「友達を殺してしまった」ことがある。手に掛けてしまった友の顔が思い浮かんで、芝居が続けられなくなる。
 また、台本の中での対立関係が、刑務所内の人間関係にも反映され始め、まるで刑務所内にローマ帝国(まだ共和国か)が現出し始めたかのように見えてきます。
 皆、のめり込みすぎだ!

 ところが観ている内に、ちょっと違和感を感じてしまいました。
 本作はドキュメンタリにしては人物のアップも多く、会話しながら練習する風景は、カットを切り返しながら、ドラマさながらの演出が行われたりしています。これはどうやって撮影したのでしょうか。
 ヤラセではドキュメンタリ映画にはならないから、やはり複数のカメラで密着取材したのか。その割に撮影スタッフが画面に入り込まないので、本当にドラマのような印象ですし。
 随所にドラマチックな劇伴も挿入されるし、なんか妙だな。

 と、思ったらやはり本作はドキュメンタリではなかったようです。私の勘違いか。確かに「ドキュメンタリ映画である」とは、一言も宣伝されていなかったし。
 レビッビア刑務所で演劇実習が行われているのは、本当のようです。
 また、本作に出演している囚人は本物であると云うのも本当らしい。
 しかし『ジュリアス・シーザー』を上演することになったの云うのは、この映画の企画でした。

 つまり演劇実習が行われている刑務所に、『ジュリアス・シーザー』の題目を提示し、承認を受け、それを実際に公演する運びにし、練習中にはドキュメンタリ風に撮影も行われるが、一部は脚本による創作も入っているらしい。
 おかげで虚実入り交じる異様なドラマになっております。「いかにもドキュメンタリーっぽい作品」ですが、フィクションも混じっているようです。

 モキュメンタリーとか、フェイク・ドキュメンタリーと呼ぶほど、架空の人物や架空の事件が、さも実在したかのように撮影されているわけでもない。本物の刑務所で、本物の囚人達が、いつもの演劇実習と同じように稽古しているのですが、一部は脚本に則って進行しているようです。
 さては、皆が役にのめり込んでいく描写がフィクションなのか。
 後に解説記事を読みましたところ、ブルータス役の囚人だけは、服役囚ではなく、既に出所した元・囚人であったとか。撮影の為に、かつて収監されていた刑務所に戻ったワケですね。
 劇中では古巣にすっかり馴染んでいたように見受けられました。

 しかしある程度は実際に起きたことなので、虚構と現実の区別が付きにくいです。
 ところどころ、ハプニング的に発生する事件も挿入され、そのまま撮影に使用されていたりします。
 入所したばかりの新米がアントニウス役に配役されるが、リハーサル中に沈み込んでしまう出来事がありました。見た目にもテンションがグダグダです。
 どうやらリハーサル前に面会時間があったらしく、面会から戻って以来、沈み込んでしまったようだと説明されています(面会室でナニがあったのだ、アントニウスよ!)。
 こういうことは刑務所内ではよくあることのようで。

 刑務所内に劇場を設営するのも囚人達自身で行っています。これもノンフィクションか。
 「この座席には女が座るのかなあ」と云いつつ、座席をナデナデする囚人もいます(気持ちは判る)。
 本作には女性はまったく登場しませんし(一般観客の中にチラリと見えるくらい)。

 そしていよいよ開演の運びとなり、再び画面はカラーになります。
 舞台上で行われる〈フィリッピの戦い〉も迫力あります。本作を観ていると、ダイジェスト的に劇中劇の『ジュリアス・シーザー』の筋が紹介されているので、シェイクスピアを知らなくてもちゃんと筋が理解できるようにはなっております(判らなくても大丈夫だし)。
 冒頭の場面へ戻ってきて、フィナーレです。万雷の拍手を送られ、囚人達が嬉しそうに舞台上でガッツポーズを取るのが印象的でした。

 そしてまた監獄へ連れ戻される囚人達。
 「芸術を知ってから、監獄が牢獄になってしまった」と落ち込む囚人が哀れです。これは創作ではなく、本当に本音を漏らしたところを使用したらしい。
 エンドクレジットでは、その後の彼らについてが短く紹介されます。
 刑期を勤め上げ、出所した後、本当に役者になった者もいるし、本を執筆し作家になった者もいる。

 本作は稽古中の刑務所内の虚構と現実が重ね合わされる演出が、ドキュメンタリさながらに描かれるところが肝なのでありますので、この演劇実習そのものの是非を云々することはありません。
 更生プログラムの一環であるので、役に立っているところもあるのでしょう。
 でも私は、被害者遺族はこの上演をどう考えるのかだろうかと、ちょっと気になりました。

 アルゼンチン映画『瞳の奥の秘密』(2009年)を観たときに、被害者遺族が「(自分と同じように)この先、犯人には出来る限り空虚な人生を過ごしてもらいたい」と語る台詞があって、愛する者を奪われた恨みは消えないのだなあと感じるところがありました。
 それを踏まえると、刑務所の中で囚人達がなんか充実した時間を過ごしているような映画は、ちょっと受け入れられないのではないか。
 まぁ、そんな遺族はそもそも刑務所内での上演なんか観に行ったりしませんかね。


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