2016年6月3日金曜日

神様メール

(Le tout nouveau testament)

 本作はベルギー出身のジャコ・ヴァン・ドルマル監督・脚本によるファンタジー映画です。前作『ミスター・ノーバディ』(2009年)から随分経ちました。寡作な監督ですね。
 しかし寡作ではあれども、監督作品はどれも傑作ぞろいですよ。特に、SF者なら『ミスター・ノーバディ』は観ておくべきでありましょう(個人的にはこれがイチオシ)。
 そのドルマル監督がようやく次に撮ったのが本作。今度は宗教絡みのファンタジー映画だと云うので、観る前からかなり期待しておりました。
 結論から申し上げると、『ミスター・ノーバディ』ほどではないが、なかなか面白かったデス。

 宗教、と云いましても本作で取り上げられるのは、専らキリスト教であります。冒頭、チラッと他の宗教にも触れておりますが、登場する神様はキリスト教で云うところの神様。他の神様は登場しません。いるのかいないのか、全く触れられていないので、「アッラー」や「バアル」について言及しない方が良かったのではないかと思いましたが、些細なことです。
 当然、劇中で取り上げられるエピソードも聖書ネタです(ほぼカトリック)。イエス・キリストが息子であると、堂々と語られていますし(イスラム教ではイエスは預言者の一人に過ぎませんからね)。
 基本的にコメディ・タッチでありまして、ファンタジーと云うよりも、壮大なホラ話として楽しむのがよろしいのでしょう。『ミスター・ノーバディ』も基本的にはホラ話でしたし。

 しかしキリスト教をネタにしたホラ話と云うと、やはりどうしてもモンティ・パイソンの『ライフ・オブ・ブライアン』(1979年)を想起しますね。本作もまた、割と神様をおちょくった描写が随所に見受けられるのですが、特に宗教団体から批判されるだとか、上映禁止騒動が持ち上がるようなことは無かったようです。
 やはり時代が違うのか。随分とカトリック団体も寛容になったものです(でもイスラム教で同じ事をやらかせば、多分命はないな)。
 まぁ、ジャコ・ヴァン・ドルマル監督は、テリー・ジョーンズ監督やテリー・ギリアム監督のような、毒のある笑いは盛り込みませんでしたけどね(あまり)。

 冒頭から「神様はブリュッセルに住んでいて、パソコンで世界を管理している」とヌケヌケと語るところからして、マジレスしちゃいやよと宣言しているようなものです。
 世界創造の第一歩はブリュッセルからだそうで、まずブリュッセルが創られ、それから各種の動物が創造されていったのだそうです。パソコンの中にあるカタログを基にして。なんとお手軽な創世記か。
 そして最後に自分に似せて人間を創造した。ちょっと冴えない全裸のアダムに局部を隠す黒いボカシが貼り付いているのが笑えます。

 などと語っているのは一人の少女。名前はエア(ピリ・グロワーヌ)。神様(ブノワ・ポールヴールド)の娘であり、つまりイエス・キリストの妹であるそうな。
 随分前に家を出て行った兄貴のことを「JC」と呼んでおります。勿論、ジーザス・クライストの略ですが、ベルギー人には他にもJCがいるのデス。
 劇中でも「JC? ジャン=クロードのことか」なんて台詞もありますし。やはりベルギーだけあって、ちゃんとジャン=クロード・ヴァン・ダムには言及しておかないとイカンですね。私の知っている数少ないベルギー人俳優ですし、俺的ベルギーの人間国宝ですから。
 しかしイマドキの若い女の子には通じないネタであるのが哀しい。いっそジャン=クロード・ヴァン・ダム御本人がカメオ出演とかしてくれたら、もっと嬉しかったのですが。

 ともあれ、ブリュッセル市内のとある3DKのアパートに神はおわし、そこから一歩も外に出ることなく、日々、世を統べるルールを策定したりしておるわけですが、これがまたヒドい。
 戯れに人々を不幸にし、退屈しのぎに大事件を起こしては悦に入るというとんでもない神様です。こいつ悪魔か。
 おまけに偏屈でロクデナシと云う、グータラ亭主の見本のような奴。
 3DKの狭い世界で、家族をないがしろにして我が物顔に振る舞っております。DVも日常茶飯事。奥さん(ヨランド・モロー)は旦那を怖れてまったくの無抵抗。娘のエアも父親には愛想を尽かし、いつか兄貴のように家を出て行こうと考えている。
 冒頭から壮絶に神様をディスっておりますが、ここまでやればカトリック団体も呆れて抗議しなくなるのでしょうか。

 ある日、些細なことから父娘喧嘩が勃発し、ついに娘エアは家出を決意するわけですが、行きがけの駄賃に神様のパソコンを勝手にいじり回していく。
 神様はパソコンを使って世界を管理している割に、自分はIT音痴であると云うのが笑えます。しかもデスクトップに「絶対見るな」フォルダを作って、本当に見られてヤバいファイルをそこに納め──IT音痴あるあるですねえ──、アクセス制限も何も無しと云う杜撰な管理。
 世界が混乱した状態なのも宜なるかな。
 そして全人類の余命リストなんてのも作っているわけで、エアはその内容を各人宛に送信してしまう(御丁寧にカウントダウン表示する専用アプリ付で)。これが邦題の『神様メール』。

 さて、突然に自分の余命がどのくらいあるのか知らされたらどうなるか。
 最初から信じる者は少ないと思いますが、余命の短い人から的中していくので、やがて信じないわけにはいかないようになる。
 しかし車を運転中に「余命数秒」と宣告された人がスマホ画面のカウントダウン表示を見ているうちに交通事故で亡くなると云うのは、どうなんでしょね。その人が亡くなる原因だったのは交通事故ではなく、メールの所為だったのでは。因果関係が逆転していそうなところがSFぽいです。

 また、余命が宣告された以上、「その時が来るまでは何をしても死なない」と考えるものも出る。実際に投身自殺を試しては、奇蹟的に助かる様子を自分で撮影し、動画サイトにアップロードしている若者もいます。
 『デスノート』(2006年)で松山ケンイチがやっていたトリックに通じるものがあります。
 しかし「死なない」ことと「健康でいる」こととは違うのだと気がついておりませんね。劇中でも、助かりはするものの、怪我の度合いが酷くなっていくように描かれておりました(それでも気にしていない様子なのがバカすぎる)。

 全人類が余命を知ってしまったことに激怒する神様ですが、もはや後の祭り。
 しかも激怒の理由が「人間の弱みを握っていた優位性が崩れた」と云うのだから呆れます。つまり余命を知ることで人間は覚悟が定まり、それ故に神を畏れず、敬わなくなると云う理屈であるらしい。
 ドルマル監督は荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』を読んでいたりするのでしょうかね(当然、フランス語訳くらいはあると思うのですが)。なんとなくプッチ神父の理論を思い出しました(第六部『ストーン・オーシャン』な)。
 プッチ神父曰く、──

 悪い出来事の未来も知ることは「絶望」と思うだろうが、逆だッ!
 明日「死ぬ」とわかっていても「覚悟」があるから幸福なのだ。
 「覚悟」は「絶望」を吹き飛ばすからだッ!

 ──なのだそうです。本作ではそこまで劇的で熱い展開にはなりませぬが、思想的には共通しているような印象を受けました。
 劇中で描かれるのは、余命を知り、それを受け入れた人々が、やり残していたことや、それまで決断できなかった事柄を決断し、本当にやりかったことを実行して幸福になっていく様子ですので、エアの送信したメールで悲劇が起こるような展開にはなりません。
 何となく予定調和的な演出だなあと思わないでもないです。まぁ、ユルいコメディですからね、主人公エアがメールを送信したことで責められるような場面はありませんでした。やったことを後悔するようなシリアスな場面も無し。

 さて、神様が気付いたときには、娘エアは既に家出しており、パソコンはフリーズさせられて自力で直すことは出来ない。パソコンが使えないと、まったくの無能になる神様。
 仕方なく、娘の後を追ってブリュッセルの街へと出て行きます。
 出入り口のない神様の3DKのアパートですが、ドラム式洗濯機の設定によって、外界と繋がることが出来るらしい。洗濯機の奥に通路が現れ、辿っていくとブリュッセル市内のコインランドリーに繋がっているのが笑えます(テリー・ギリアム監督作品を思わせますね)。

 他にも、劇中では比喩表現をそのとおりにやってみせて笑いを取る演出も見受けられました。詩的な表現も、実際にやられるとバカバカしい。
 「三〇人の男がクルミを割っているような声だ」と云われると、本当に三〇人の男がずらりと並んで一心不乱にクルミを割り続けている状況を見せてくれます。ひどい音だ。
 「蒸留所で死んだラクダのような匂いがする」と云われると、本当にウィスキーの蒸留所で大樽を前に横たわるラクダを見せてくれます。幸いにして匂いは判りませんでしたが(昨今流行りの4D上映でも無理ね)。

 人間の世界に出てきたエアが何をしようと考えているのかが、いまいち判り辛いです。そもそもあまり目的もなく、家出してきているだけですし。
 一応、兄貴JCのアドバイスにより──兄貴は大昔に磔になったと思いきや、実は3DKのアパート内に潜伏していたのだ──、下界におりたら使徒を探すよう云われている。
 特に自分で何をするのか悩まなくても良いのだ。事を為すのはすべて自分の使徒の方なのだから。まぁ、六人くらいで丁度良いのでは。
 などとJCからアドバイスされ、追加の六人の使徒を探し始めるエア。

 使徒を探して、その行動を記録させる。それが自分の新たな聖書となるのだ。
 本作はそうやって、『新・新約聖書』を完成させようとするエアの旅が描かれるのですが、ブリュッセル近郊で済ませてしまえるのがお手軽ですね。
 本作は、ドラマの各パートが聖書になぞらえて章立てされています。
 冒頭の状況説明が「創世記」、父親に反発して家出を決行するのが「出エジプト記(エクソダス)」となっています。
 そして中盤以降のドラマは、エアに指名された六人の男女の物語となります。短編ドラマが六つ連続するようなもので、各々の名前を取って「○○○による福音書」と名付けられています。

 追加される六人の使徒を演じているのが、ローラ・ヴェルリンデン、ディディエ・ドゥ・ネック、カトリーヌ・ドヌーヴ、フランソワ・ダミアン、セルジュ・ラルヴィエール、ロマン・ジェランという老若男女の皆さん。
 ぶっちゃけ、カトリーヌ・ドヌーヴ以外はまったく馴染み無しです。何人かは『ミスター・ノーバディ』にも出演しているのですが、憶えが無い。
 カトリーヌ・ドヌーヴは『しあわせの雨傘』(2010年)以降、『皇帝と公爵』(2012年)くらいしか存じまぬがお元気ですね。

 ある者は仕事を辞めて鳥と共に旅に出る。ある者は真実の愛を見出し、またある者は初恋の人と再会する。女装趣味(又は性同一性障害か)をカミングアウトする者もいる。
 各々のドラマ──奇妙な味わいの福音書──が語られ終わると、エアはそれぞれの人の心臓の鼓動を聴き取り、それを音楽に例えて表現するのがパターンとして描かれます。
 ある使徒の鼓動はシューベルトの「死と乙女」であり、またある使徒の鼓動はシャルル・トレネの「ラ・メール」であるといった具合です。人それぞれに音楽を持っている、と云うのが詩的ではありますが、その曲である必然はあまり感じられませんでした。
 こういうのはフィーリングですので、私にはイマイチよく判りませんデス。

 各人のドラマの間に、人間界に降りてきて災難に遭う神様の様子も描かれていきます。
 エラそうにしていた神様が、人間界では為す術なくホームレス扱いされて手も足も出ない。それでも口の悪さと傲慢な態度だけは変わりが無いので、受難も自業自得でありますが。
 まぁ、部屋着のガウンを羽織ったままで「俺は神だぞ」などと宣う人物がまともに扱われるわけがない。
 ウズベキスタンから来た難民を収容している教会に放り込まれて、一緒くたにされてしまう神様です。そしてそのまま一緒に強制送還。

 そうこうする間に、宣告された余命が尽きそうになる使徒もいて、「死ぬ前に海が見たい」との望みのままに、使徒達と海岸までやって来るエアですが、同じ事を考える人は多かったという展開に笑いました。ボランティア達が忙しく、「今日死ぬ人」と「付き添いの見届け人」の整理に追われている。
 情緒もへったくれもありませんな。
 しかしそのまま天寿を全うするかというと、そうはならない。
 実は3DKのアパートに只一人、残っていた母親がひょんなことからパソコンを再起動させてしまい、亭主のいない間に世界を作り替え始めてしまうのであった……。

 世界は女性の管理に任せる方が、実は巧く回るのではないかと云うメッセージを感じます。或いは真理か。
 つい最近観たマイケル・ムーア監督の『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』(2015年)でも云われておりましたね。とかく男ばかりに任せておくと、世界はロクなことにはならないのだ。
 自動的に「定められた余命」はリセットされ、再び人々はいつまで生きるのか判らなくなります。それでも、前の設定より遥かにハッピーな世界になったので、まあイイか。例え空が花柄になってしまおうとも。

 ところで、あの傲慢な神様がその後、どうなったのかと云うと……。
 実は劇中では、「この世界こそが天国なのよ」と云うエアの台詞があります。死後の世界に天国などない。死後は無なのだ、とは監督の哲学でしょうか。
 と云うものの、「こんな天国なら俺にだって作れるわい」などとツッ込まれていました。
 しかし同じ理屈で云うと、地獄もまたこの世界にあることになりますまいか。
 ウズベキスタンへ強制送還された神様は、そこでこの世の地獄のような洗濯機製造工場で働かされているのであった……と云うオチ。そうか、地獄はそこにあったのか(ウズベキスタンの皆さん、ごめんなさい)。




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