2016年1月18日月曜日

イット・フォローズ

(It Follws)

 デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督・脚本による低予算ホラー映画です。有名俳優もいないし、取り立てて派手なCG特撮もありません。もうB級一直線なホラー映画ですが、アイディアの勝利によって面白いものになりました。確かに本作は「今までありそうでなかった」作品です。
 「クエンティン・タランティーノも絶賛」と云う評価は間違いではありませんね。
 劇場に足を運んだ際に、あまり前評判も聞かなかった──予備知識も仕入れなかったし──のに「当たり」だったことは、それほど多くはありませぬが、これはその希なケースです。
 本作で不満なのは、邦題がヒネリなしであるところくらいでしょうか。原題をカタカナ変換するだけでは、あまりホラー映画ぽく感じられないのですが。

 本作を支えているのは「性交渉によって呪いが伝染する」と云う発想です。ほぼこのワンアイディアで全編押し切っております。
 細かく挙げると、「呪いは人間の姿をしてやって来る」とか、「常に人が歩行するスピードである」とか、「無関係な一般人には見えない」とか、「物理的な制限もちゃんと受ける」といったルールもあります。本作は自らが掲げたルールをきちんと遵守し、「こうだからこうなる」と云う理屈を通しており、それが面白い演出に繋がっているのが巧いですね。

 まぁ、B級ホラーですから、そもそも「何故そんな呪いがあるのか?」なんて疑問には一切、答えるつもりがないのも清々しい。
 大体、ホラー映画には昔から「親の目を盗んでイチャつく不埒な青少年共には殺人鬼が鉄槌を下してくれる」と云う暗黙のルールがありましたしね。「バカップルから死んでいく」と云うのもテッパンすぎるお約束です。
 だからホラー映画で「エッチなことをする」のは「死亡フラグを立てている」のと同義なのです。
 でも、本作の「性交渉によって呪いの対象を移せる(「感染せる」かな)」と云うのは、コロンブスの卵的な発想でした。

 B級ホラーではありますが、何やら「性病の比喩」のようでもあり、「不幸の手紙」との類似も感じます。但し、呪いを相手に押しつけるととりあえずは逃れられるのが、感染症とは異なるところです。
 対策は「他人と性交渉して呪いを移す」ことだけ。根本的な解決策は最後まで提示されません(そんなものがあるのかも判らない)。
 大体、その亡霊というか悪霊というかの正体がさっぱり判らないのもB級映画らしいところですが、取り憑いて殺す対象が移ったことをどうやって察知しているのかも判りません。

 劇中では常に「それ」としか呼ばれません。霊的な存在なのかと思われましたが、物理法則に縛られてもいるようなので、悪霊と呼ぶのも違う気がします。
 飛べないので歩くしかない。目には見えないが壁抜けは出来ない。
 霊魂の類ではなく、透明人間のような描写です。劇中では、「それ」を見ることが出来ない者が見えないナニカに突き飛ばされて転倒するとか、シーツを被せたら空中に人型のような輪郭が視認できたといった演出もありました。
 見えないけれど、実体は備えているらしい。だから窓を割って侵入するとか、ドアを蹴破って入ってくると云う、およそ悪霊らしからぬ振る舞いをします。

 その一方で、「見える者には姿形を変えることが出来る」と云うルールもあります。だから、同じものが追ってくるわけではない。むしろ同じ姿には二度とならないようにしているのではないかとも思えます。
 大抵の場合は、一目見たら怪しさ爆発するような風体で迫ってくるので、割と簡単に察知することが出来ます。そりゃもう、大学のキャンパスを寝間着姿の老婆がうろついていたら人目を惹きそうなものですが、周囲の学生達は誰も不審な素振りを見せないので、「それ」だと判る。
 夜の街を全裸の女が歩いていたらもっと人目を惹くだろうとか、屋根の上に全裸のオヤジが仁王立ちしていれば通報されるだろうとか、「それ」を見分ける方法はそれほど難しくはない。

 どうも「それ」はあまりTPOには頓着しない性格のようです。
 但し、そうやって慢心していると、たまに「自分の見知った姿」で現れてくるのが厄介です。これは「それ」の作戦なのか。
 いつもは一目で判るような怪しい姿で現れておき、ここぞと云う局面では母親の姿で現れて油断したところを襲いかかる。実に怖ろしい。
 だから一瞬たりとも気が抜けない。いつ、友人の姿を装って近づいてくるのか判らないのだ。

 このルールの秀逸なところは、これによって「ごくフツーの通行人の誰も彼もが怪しく見えてくる」と云う演出に繋がるからですね。
 単にエキストラさんを映しているだけで、それが恐怖演出になる。低予算ホラー映画としては素晴らしい費用対効果と申せましょう。「誰かがこちらに向かって歩いてくる」だけで、これほど怖いと思わせるホラー映画は初めてです。
 じわじわと得体の知れないものが近づいてくる恐怖。足音を思わせるような劇伴のビートも効果を上げております。

 半ば実体を備えているので、攻撃方法も物理的な手段に限られるようです。
 「それ」が追われている女性の髪の毛を掴むと、「それ」を見ることが出来ない者にも、女性の髪の毛が空中に持ち上げられているのが見えたりします。やはり一種の透明人間だと考えるのがよいのでしょうか。
 「それ」の標的にされて怯える者の家には、そこいら中に空き缶や空き瓶をつないだ即席の鳴子が仕掛けられていると云う描写もあります。鳴子で接近を感知できるらしいので、いよいよ悪霊とは呼べませんね。

 但し、物理攻撃のみとは云え、腕力は相当なもののようです。手始めに冒頭で血祭りに上げられる女性は、遺体がもはや奇怪なオブジェのように手脚をへし折られてねじ曲げられた無残な姿で発見されたりします(ここが本作で一番のショッキングシーン)。
 物理攻撃しかなくても侮れません。その上、銃で撃っても死なない(倒れますがまた立ち上がる)し。これはゾンビが透明人間になっているようなものか。

 移動速度も徒歩程度なので逃げ出すことも容易いが、油断していると捕まってしまうのもゾンビ映画と共通している点でしょうか。まぁ、近年の「走るゾンビ」には当てはまりませぬが、古典的なロメロ風ゾンビと似ておりますね。
 犠牲者は常に「油断したところを襲われる」のです。油断さえしなければ逃げ切れますが、人間は常に緊張状態を維持できない。いつか油断してしまう時が来る。
 『エルム街の悪夢』の「眠ったら殺されるが、いつかは眠らねばならない」と云う避けがたい状況とも似ております。神経磨り減らして消耗していき、いずれは餌食になってしまう。

 ホラー映画で「何故」を追求すると恐怖感が減じてしまうので、本作では極力「判らないものは判らない」で押し通しています。
 何故こちらの居場所が判るのか、殺してどうするつもりなのか、どこから来たのか等々の基本的な疑問には一切、答えを用意しておりません。判るのは「それ」の振る舞いに関することのみ。
 標的を始末してしまうと成仏する……ワケではなく、その標的と最後に性交渉した者にまた対象が戻ってしまうと云うルールもあります。
 だから自分が狙われないためには、「次の人」がまた別の誰かと性交渉し、その誰かは更にまた別の誰かと……と、標的を順送りにしていく他は無い。列の最後尾にいる者が常に標的。

 ある種のスポーツかゲームのようなルールです。
 だから「それ」が順調に標的を始末していくと、いずれまた自分が最後尾になってしまい狙われることになる。避けるためには新たな標的を生み出し続ける他ないのか。
 劇中では、ヒロイン(マイカ・モンロー)を助けようとする青年(キーア・ギルクリスト)が、街角に立つ娼婦を見つめるシーンがありました。このとき、ふと「商売でヤッてる者を連鎖に組み込むとどうなるのだろう」と疑問が湧きました。
 娼婦は常に新たな標的を生み出してくれて、「それ」からの防波堤になってくれるのでは。
 他者を犠牲にして生き延びるようとする考えなので、あまり良策とは云えませんが、緊急避難的には許され……ないかな。それにタイミングが悪いと、新たな標的が生まれる前に娼婦が殺されて元の木阿弥になりますし。

 では、標的が連鎖の前の方にいる人とヤッちゃうとどうなるのかな。
 この場合はループが形成されて、いずれ自分が殺されてしまうのはやむを得ないとしても、ループを辿りきるとそこで標的が消滅してしまうことになりますまいか。
 「それ」の活動を止めるには、ループを作って、ループの中にいる者全員が(自分を含めて)覚悟を決めて犠牲になる他ないのだろうか。

 例えば、AさんとBさんがエッチする。その後、BさんとCさんがエッチする。「それ」が狙うのは最後尾のCさんになりますが、ここで襲われる前にCさんがもう一度、Bさんとエッチしてしまうとどうなるか。
 Cさんより先にBさんが襲われ、次にCさんが襲われるが、Cさんの最後のエッチの相手はBさんなので「それ」はこれ以上、連鎖を遡ることが出来なくなるのでは。
 するとAさんを助けるために必要な最小限の犠牲者ループは……二人いればいいのか。

 ストーリーとしては、最後に助かるのは主人公のヒロインであってもらいたいところですね。必然的にBさんは男性になりますが、次のCさんが再び女性になってしまう。ヒロインを救うためにまた別の女性が犠牲になるのはよろしくないか。
 犠牲になるなら野郎であってもらいたい。
 と云うことは、ヒロインAさんを救う為には、覚悟を決めたBくんとCくんに決死のBLを敢行してもらう他はない(それも攻守を変えて何度もな)。これはこれでなかなか壮絶な場面になるような気がします。
 ……なんて、どうでもいいようなことを延々と考えてしまいました。アホや。

 当然のことに劇中ではそのような解決策が採られることはなく、もっと緊迫した最終対決の場が用意されます。
 学校の屋内プールに狙われているマイカ・モンローを配置し、友人達がプールサイドに待機する。「それ」が目に見えずとも、実体があるのなら水を押しのけて現れる筈だから、「それ」が見えなくても居場所が判る筈だ。
 透明人間対策としてはいいアイデアだと思いますが、果たして巧くいくのやら。

 結局、銃弾を受けても平気な「それ」でしたが、最後の一発は頭部を貫通したようです。
 「頭を破壊されるとゾンビは停止する」と云うお約束は「それ」にも通用するのか。そもそも「それ」が「透明なゾンビ(のようなもの)」であると云う見立ては正しいのか。
 劇中では、はっきりと明示されないまま、「それ」の襲撃は止むことは止みます。単に一時的に撃退しただけなのか、とどめを刺せたのか。

 もやもやとはっきりしない不安なエンディングもまた低予算B級ホラー映画の王道を行く展開ですね。危機を乗り切ったマイカ・モンローとキーア・ギルクリストのカップルが手をつないで歩いて行くところでエンドです。
 でもピントの合っていない後方から誰かがついて来るようなのですが。
 きっとただ通行人ですよね。気にしすぎ……カモ。




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