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2015年12月22日火曜日

リトルプリンス/星の王子さまと私

(The Little Prince)

 世界的名作『星の王子さま』のアニメ化作品です。監督が『カンフー・パンダ』(2008年)を監督したマーク・オズボーンであるので、てっきり本作も同じくドリームワークス製作作品だと勘違いしておりました。本作はフランス映画です。

 サン=テグジュペリの『星の王子さま』は、舞台化は勿論ですが過去何度か映画化もされ、アニメ化もされたりしていたことを記憶しております。どちらかと云うとアニメの方が多いようです。日本のアニメにもあったし。
 「本当に大切なものは目に見えないんだよ」と云う台詞も、様々な作品で引用されてますね。もはや出典を知らずに引用している方も多いのでは。

 実写映画としては、スタンリー・ドーネン監督のミュージカル映画であったものが印象深いです。もう随分と昔のハナシですが。
 スタンリー・ドーネン版の『星の王子さま』(1974年)では、キツネ役がジーン・ワイルダーで、ヘビ役がボブ・フォッシーであったこと以外はほとんど内容も思い出せませぬが、とにかくボブ・フォッシーのヘビのダンスだけは忘れ難い。

 さて、本作はその名作を最新の3DCGアニメとして映像化したものですが、CGだけでなく、人形を使ったストップモーション・アニメと併用されているのが印象的でした。シーンによってアニメの手法を使い分けているのですが、これが実に見事な効果でした。
 原作をなぞるだけでなく、その後日談も描こうという趣向になっていて、ある老人が主人公の少女に語って聞かせる物語が『星の王子さま』であると云うスタイルです。この後日談の部分はオリジナルですので、本作が純粋な『星の王子さま』かと云うと、ちょっと違いますが──邦題も「星の王子さま」に「と私」が付いてますし──、このオリジナルである「と私」の部分も素晴らしいので、一粒で二度美味しいストーリーになっています。

 具体的には、老人と少女の部分が3DCGになっていて現代のストーリーですが、劇中劇となる『星の王子さま』の各エピソードはストップモーション・アニメです。どちらかと云うと、この人形を使った部分の映像が大層美しく、また味わい深い。原作のイラストのタッチを活かした造形になっています。
 近年でも、あえて人形を使ったストップモーション・アニメが──『コララインとボタンの魔女』(2009年)とか、『パラノーマン/ブライス・ホローの謎』(2012年)とか──ありますが、本作もそれらに比肩し得るでしょう。
 まぁ、そもそもこのストップモーション・アニメの部分のスタッフは、前述の『コラライン~』やら『パラノーマン』やら、ティム・バートン監督の『フランケンウィニー』(2012年)を手掛けた人達であるので、似ているのは当たり前か(だからディズニー的でもあり、ピクサー的でもあり、ドリームワークス的でもある)。
 いつもながらいい仕事をする人達です。

 時間に追われ、心のゆとりを無くした灰色の管理社会に於いて、一人の少女が老人と出会い、『星の王子さま』の物語を知り、精神的に成長していく過程が描かれております。
 冒頭は原作をなぞって老人のモノローグによる、子供の頃に描いた「怖ろしいウワバミ」の絵について語られるのが楽しいです。
 しかしそのまま『星の王子さま』になるのではなく、まずは少女の側の事情がテンポ良く語られていきます。始まってしばらくは、オリジナルなストーリーですが、コメディ・タッチな演出もドリームワークス・アニメーション作品かと見紛うばかりでした。
 音楽もハンス・ジマーだし、フランス映画とは思えませんね。

 9歳でお受験に挑む少女が名門学園の入学最終面接で緊張のあまり失敗してしまい、入学は絶望的になる。その後の人生設計のためには何としてでもこの学園に入学しなければならないのに、最初の一歩から躓いてはすべてが水の泡。
 かくなる上は、自動的に入学出来るよう、その学園のある学区内に引っ越すしかない。
 何とか学区内に空き家の物件を見つけるが、その家が空いていたのは燐の家に住む老人が近所でも評判の奇人変人だからだった。
 没個性な四角い住宅が規則的に並ぶだけの無味乾燥な住宅街に、一軒だけ異彩を放つ個性的すぎる家が建っているのが笑えます。

 そこで登場する隣の家の老人が、通称「飛行士」さん。劇中では一度も本名で呼ばれることはありませんが、誰がどう見てもアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリがモデルでしょう。
 原作者のサン=テグジュペリは老人になるまで長生きできませんでしたが、「生きていたらこうであったもらいたい」と云う製作スタッフの願望が伺えます。
 何故か裏庭にオンボロの複葉機を設置し(どうやって運び込んだのかは謎です)、住宅地の中で飛ばそうとしては失敗し、何度も警察のお世話になっていると云う老人。この日もプロペラを吹き飛ばして、それが引っ越してきたばかりの少女の家に大穴を開けてしまう。

 九月の新学期を無事に迎える為には、夏休み中でも勉強に励まねばならないのに、こんな変人を相手にしていてはいけません──と母親に諭され、最初は無視を決め込む少女ですが、ひょんなことから老人の描いた一枚の原稿を目にしてしまう。
 それが『星の王子さま』の最初の一ページ。続きが気になる少女は、母親には内緒で老人宅を訪ね、次第に親しくなり、老人の語る物語に引き込まれていく。
 それは飛行士さんがまだ若い頃、砂漠に不時着した際の体験談で……。

 飛行士さんの声を演じているのは、ジェフ・ブリッジス。少女の声は、マッケンジー・フォイ。
 マッケンジー・フォイは、クリストファー・ノーラン監督のSF映画『インターステラー』(2014年)で、ジェシカ・チャステインの少女時代を演じていた女の子ですね。
 もっとも、私が観たのは日本語吹替版でして、ジェフ・ブリッジスらがどんな風に演じていたのかは判りません。でも日本語吹替版の方もなかなか味わい深い出演者でした。
 まず、飛行士さんが津川雅彦、少女は鈴木梨央が演じております。これが全く違和感ナシ。
 特に津川雅彦の飄々とした老人ボイスがハマっておりました。

 その他の配役では──少女の母親がレイチェル・マクアダムス(瀬戸朝香)、学校の先生がポール・ジアマッティ(壌晴彦)です。
 『星の王子さま』のエピソードの中では、王子さまがライリー・オズボーン(池田優斗)、キツネがジェームズ・フランコ(伊勢谷友介)、ヘビがベニチオ・デル・トロ(竹野内豊)、バラがマリオン・コティヤール(滝川クリステル)、王様がバッド・コート(坂口芳貞)、ビジネスマンがアルバート・ブルックス(土師孝也)、自惚れ屋がリッキー・ジャーヴェイス(ビビる大木)といった面々。
 原語版の配役も凄いが、吹替版の方もごく自然にアニメ映画として違和感なしに鑑賞できます。吹替に芸能人を多数起用しても成功している例ですね。
 特に子役の鈴木梨央と池田優斗が巧い。全く浮いていません。

 若干、原作の展開が省略されているので、王子さまが小惑星から小惑星へ旅を続けながら出会う人々の中には出番のない人もいます。
 「学者」や「将軍」、「点灯夫」といった人々は端折られてしまいましたが、ストーリーの進展上、差し支えるものではありませんですね。
 まぁ、点灯夫の場合は、あくせく時間に追われて働く様子が、現実世界の人々とカブってしまいますし。
 サン=テグジュペリが執筆当時の世界情勢の比喩として表現した「バオバブの木」は、単なる迷惑な雑草といった扱いです。今の御時世に日本やドイツを非難しても仕方ないし、お子様にはピンと来ないでしょう。と云うか、バオバブの木が枢軸国の比喩だったとは、私も随分と後になって知ったことですが。

 「バオバブの木」は置いておくとしても、四〇年代当時に書かれた原作を、ほぼそのまま現代を背景にして描いても違和感ナシと云うのが凄いデスね。やっぱり昔から「大人はあくせく働くばかりで、人生の大切なものを見失っている」ものだったのか。
 老人の語りを聞いているうちに、少女は自分の母親が『星の王子さま』の登場人物にダブって見え始める。確かに、お母さんも母子家庭で生計を立てるために頑張っているのですが、余裕が全く感じられない生活は窮屈です。しかも自分ではそのことに気がついていない。
 そこで「大人になんてなりたくないわ」とピーター・パンみたいなことを云い始めるのですが、飛行士さんは「それは違う」と云う。
 怖ろしいのは「大人になる」ことではなく、「忘れてしまう」ことだ。

 劇中では何度か忘却してしまう事についてが語られます。その存在を忘れてしまえば、もはやそれまでだが、誰かが憶えている限り、その存在は生き続ける。
 そんなことを語りながら、飛行士さんには時折、健康状態がよろしくない様子が見受けられるので、少女にとっては不安で仕方が無い。
 あげく「この物語を君にすることが出来て良かったよ」なんて縁起でもないことを云い始める。
 飛行士さんは相当な高齢者のようで、「旅立つときが来たら一人で行かねばならん」のは仕方の無いことなのでしょうが、そんな台詞は友達のいない少女にとっては耐えられない。

 折しも、『星の王子さま』のストーリーも終盤に差し掛かり、自分の星に置き去りにしてきたバラの花が心配になった王子さまは、飛行士に別れを告げることになる。だが星に旅立つためには、肉体は置いていかねばならない。
 そして「その時が来たら苦しまずに行かせて(逝かせて)あげよう」と云う約束に従ってヘビが現れる。
 このエンディングに少女が拒絶反応を示すのは当たり前ですね。「それじゃ王子さまが本当に星の世界に帰ることが出来たのか判らないじゃないの」と抗議しますが、飛行士さんは「大事なのは、そう信じることだ」と云って譲らない。
 そう信じれば、今でも星空の中に王子さまの笑い声が聞こえるのだ──なんてのは、少女には理解出来ないでしょう。「こんなの聞かなきゃ良かった!」と飛び出して行ってしまう。

 気まずい別れ方をしたまま、遂に夏休み最後の日が訪れますが、まさにその日、飛行士さんは倒れ、救急車で搬送されて行ってしまう。意識を取り戻さない飛行士さんを呼び戻す為には、王子さまを見つけて病室に来てもらう他は無い。
 その夜、母親の目を盗んで家を抜け出した少女は、飛行士さん宅の庭に放置されていたオンボロ複葉機に潜り込み、決死の覚悟で嵐の夜に飛び立つのだった。

 ここから先は完全なオリジナルで、現実と虚構が渾然一体となったストーリーが展開します。それまでの劇中劇の中に登場したキャラクター達が次々に現れますが、ストップモーションの人形だった「自惚れ屋」や「王様」が、3DCGにアレンジされているのが楽しいです(王様の落ちぶれっぷりに笑いました)。
 いつの間にやら世界は「ビジネスマン」が支配するようになっていたらしい。
 そして少女は探していた「星の王子さま」を見つけるのだが……。

 すっかり大人になってヘタレな青年に成長してしまった「王子さま」の姿が泣けます。大人になるとは何と怖ろしいことか。
 ファンタジー世界の子供が、いつの間にやら夢も希望も無い大人になっていた、と云う展開はスピルバーグ監督の『フック』(1991年)を思わせます。あちらはピーター・パンでしたが、こちらは星の王子さま。
 いつの間にか社会の歯車の一つになり、仕事で失敗ばかりしている何とも冴えないその姿には涙を禁じ得ません。いや、これはあんまりだ。
 この「ミスター・プリンス」を演じているのは吹替では宮野真守でした(ヘタレ演技が素晴らしい)。原語ではポール・ラッドだそうで、何故『アントマン』(2015年)がこんなところでと、ちょっと笑ってしまいます。

 しかもキツネや、バラのことをすっかり忘れている。どうしてこうなった。
 クライマックスは、お前も没個性的な社会の歯車のひとつにしてやると迫るビジネスマンの魔の手から逃れつつ、王子さまの記憶を呼び覚まし、星の世界に帰還すると云う大冒険が展開します。
 そして遂に王子さまも本来の姿を取り戻す。3DCGのキャラクターとして登場する王子さまが、実にドリームワークス的だったのは御愛敬ですね。

 一夜明け、すべては夢だったのかとも解釈も出来るのですが、落ち着いた様子の少女の振る舞いは見違えるようです。
 新学期の登校前に病院に寄って飛行士さんを見舞う少女。大人にはなったが、信じる心は忘れていないようです。
 飛行士さんとも和解し、万事めでたし。お母さんも娘に理解を示してくれ、仲の良い母娘に戻った二人は、一緒に屋根の上で天体観測をするまでに。
 見上げる星空からは、王子さまと飛行士さんの楽しげな笑い声が聞こえてくるのだった……って、そんな。飛行士さん、あまり長くは保たなかったと云うことなのか。

 星々が舞台装置のように吊り下げられている中を上昇していくカメラワークに、クレジットが上から下へ流れていきます。
 このエンドクレジットで日本語吹替版オリジナルの主題歌、松任谷由実の「気づかず過ぎた初恋」が流れます。いい歌だと思いますが、歌詞の内容がストーリーに合っているような無いような。




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