2014年7月13日日曜日

チョコレートドーナツ

(Any Day Now)

 母親に捨てられたダウン症の少年を保護して家族として一緒に暮らそうと、世間の偏見と闘ったゲイのカップルを描いた感動のヒューマンドラマです。一九七〇年代のアメリカで実際にあった出来事に基づいているそうで、本作に描かれる社会的マイノリティの悲哀や、周囲の無理解と理不尽な偏見には、涙と怒りを禁じ得ませんでした。
 同性愛が描かれていると(特に男同士の)二の足踏んでしまうのですが、本作は予告編を見て興味を持ったので劇場に足を運んだのでした。それに評判もよさげだったし。
 結果、非常に満足いたしました。これは今年観た作品の中でも一、二を争う感動作ですよ(今のところは)。

 同性愛を描いた映画だと、『マイ・ビューティフル・ランドレット』(1985年)とか、『モーリス』(1988年)、『ブロークバック・マウンテン』(2005年)あたりを思い浮かべるのですが、実は全スルーしております。男同士の友情を描いた映画は大好きですが、男同士の愛情はちょっと……(昔からBLはダメなんです)。
 いや、ダニエル・デイ=ルイスも、ヒュー・グラントも、ジェイク・ギレンホールも好きな俳優ですけどね。名作だと判っていても心理的に敷居が高いのはイカンともし難い。

 それでも近年は割と耐性ができてきたようです。これはガス・ヴァン・サント監督の『ミルク』(2008年)を観て以来でしょうか。ショーン・ペンの演技は素晴らしかったデス。
 なので近年は、『フィリップ、きみを愛してる!』(2009年)でジム・キャリーとユアン・マクレガーがキスしても耐えられたし、『恋するリベラーチェ』(2013年)でマイケル・ダグラスとマット・デイモンが痴話喧嘩を繰り広げても乗り切りました(いや、別にそんな観ることが苦行になっているわけではないのですが)。

 本作はゲイカップルの恋愛ドラマではなく、社会派映画になっています。
 描かれる社会的背景──七〇年代の同性愛者に対する偏見のひどさ──は、『ミルク』でも描かれておりましたが、ここでもたっぷりと味わうことが出来ます。ゲイであるとカミングアウトすると、社会的生命どころか、生物的生命も危うくする時代でしたねえ(ショーン・ペン演じたハーヴェイ・ミルクはそれで撃たれて亡くなりましたし)。

 監督のトラヴィス・ファインはこれが初監督作品のようです。昔は俳優でもあったそうですが『17歳のカルテ』(2000年)は未見です。『チャイルド・プレイ3』(1991年)も……。
 主演はアラン・カミングとギャレット・ディラハント。
 アラン・カミングは映画よりも舞台俳優としての方が有名なようで、ブロードウェイ・ミュージカル『キャバレー』でトニー賞も受賞しているそうな。本作でもその見事な喉を披露してくれております。アラン・カミングの歌唱シーンは本作ハイライトでしょう。
 でも私が知っている範囲では、アラン・カミングは、『X-MEN2』(2003年)でのナイトクロウラー役でして(素顔が判らないくらいの特殊メイク)、こんなに歌が巧い人だとは初めて知りました。他には、ヘレン・ミレン主演のシェイクスピア映画『テンペスト』(2010年)にもナポリ王弟の役で出演しております。
 ギャレット・ディラハントはイマイチ馴染みの薄い俳優さんで、『LOOPER/ルーパー』(2012年)とか、『それでも夜は明ける』(2013年)に出演していたと聞いても思い出せませんでしたが、TVドラマ『ターミネーター : サラ・コナー クロニクル』のT-888型ターミネーターの役と云われれば、何となく思い出せました。

 アラン・カミングが、バーで歌うドラァグ・クィーンの役で、ギャレット・ディラハントはお堅い弁護士を演じております。
 余談ですが、ゲイのおねいさん(お兄さんかしら)のことは「ドラッグ・クィーン」と呼ばれていた筈ですが、いつの間にか「ドラァグ・クィーン」と表記するようになったようです。これは「衣装の裾を引きずる(“drag”)」と「マリファナやヘロイン等の薬物(“drug”)」を区別するためだそうな。
 私も昔は「オカマの人は例外なく麻薬常習者なのか」と勘違いしていた時期がありました。PCの操作を覚えてからは──「ドラッグ・アンド・ドロップ」のドラッグね──、そんな間違いはしなくなりましたけどね。PC用語の方も「ドラァグ・アンド・ドロップ」にすればいいのに。

 このアランとギャレットのゲイカップルが救おうとする薄幸の少年マルコ役が、アイザック・レイヴァです。まだ子役と呼ぶような年齢なのに、本作で見せるダウン症患者の演技はあまりにもリアルで、本物かと思ったら……本当にダウン症の人でした。本作が映画初出演。これで「俳優になる」と云う夢を叶えたのだそうな。
 しかし完全に素のままと云うことはあるまいから、どこからか演技になっていると思うのですが、まったく判りませんです。ファイン監督の演出がそれだけ見事であると云うことでしょうか。
 母親が麻薬常習者で、育児放棄されて孤独に佇む姿が、何ともやるせないです。誰からも省みられず、人形を抱えて夜の街を彷徨うように歩いて行く後ろ姿も切ない。
 劇中で何度か挿入される、マルコ少年の夜の彷徨シーンは思い返すだけでちょっと泣けてきます。

 舞台は一九七九年のカリフォルニア。深夜のゲイバーで歌うアラン・カミングが、たまたま入店した客のギャレットと知り合うところから幕を開けます。ミラーボールがキラキラなディスコ調なところにも時代を感じます。
 更に、たまたまアランが住まう安アパートの隣人に、麻薬常習者の母親と半ば育児放棄された少年がいて、顔見知りになります。母親が男を部屋に引き込んでいるときは、少年は廊下に追い出されており、見かねたアランが世話を焼き始める。意外と情に篤い漢です(ゲイですが)。
 しかし法律には疎いので、知り合ったばかりのギャレットの職場に相談しに行き、つれなくあしらわれる。社会的地位のあるギャレットとしては、あからさまに怪しげなアランとの関係を疑われたくないと云うのは理解できますが、やはり裏表のある態度は如何なものか。

 自分を偽ることなく生きているアランに対して、カミングアウトせずに隠しているギャレットの生活態度が後ろ向きです。一時は二人の仲も険悪になりますが、思い直したギャレットが謝罪して一件落着。
 しかしカップルが揉めている内に、少年の母親は麻薬所持で逮捕され、少年は家庭局の施設に連れて行かれてしまう。この施設での障害者に対する扱いが実にぞんざいです。誰だってこんな施設にはいたくなかろう。
 管理が行き届かないので少年は容易く施設から逃げ出し、元の家に帰ろうとする。人形を抱えて夜の街を彷徨う少年を、たまたまアランとギャレットが発見し保護します。
 一晩、少年の面倒を見る二人ですが、このまま家庭局に引き渡すのも躊躇われる。一緒に過ごす内にどんどん情が移っていくのが判ります。
 少年の好物がチョコレートドーナツであると明かされ、これが邦題の由来であると判るのですが、ちょっと奇妙な邦題ではありますね。原題は劇中でアランが歌う歌曲の歌詞の一部なのですが、これはこれでちょっと判り辛いでしょうか。

 実は本作は、意外とアランが歌うシーンが多くて、半ば音楽映画であると云いきっても差し支えないくらいです。歌曲の選択も巧くて、歌詞がアランの心情を代弁しているように演出されているのがお見事でした。
 中でも一番の聴きどころはラストで歌われるボブ・ディラン作詞作曲の「アイ・シャル・ビー・リリースド(“I Shall Be Released”)」でしょう。この歌詞の中に “Any Day Now(いつの日にか)” のフレーズがあって、これが本作の題名の由来となっております。この曲はディランの曲の中でもカヴァーされることが多いのだそうですが、本作中でも実に印象的です。
 この曲と、エンディングに流れるルーファス・ウェインライトの「メタファリカル・ブランケット(“Metaphorical Blanket”)」も素晴らしく、この二曲だけでサントラCD買ってもいいと思えるくらいでした。

 劇中で披露されるアランの歌声は実に見事で、さすがはトニー賞受賞者であると納得なのですが、ドラマの序盤ではあからさまに口パクで歌っております。男の野太い声は敬遠されるからと云う理由だそうですが、見た目が女装した男性なのに、声だけ女性ボーカルな方があまりにも不自然(笑)。
 しかしストーリーも後半になると、アランはギャレットに勧められてオーディション用のテープを作って音楽会社に送り始めます。
 劇中では本筋のストーリーと並行して、アランが歌手デビューしていくサイド・ストーリーも描かれ、こちらはゲイであろうと関係のない実力本位の世界であるところが救いでした。

 保護した少年を家庭局に引き渡すことなく、合法的に引き取れるよう奔走し始めるアラン。服役中の母親にも面会に行き、承諾を取り付け、家庭裁判所への申請に臨みます。
 こういう時は弁護士であるパートナーの存在は実に頼もしい。アーティスト気質で感情的なアランでは、論理的な陳述は難しいでしょう。着慣れないスーツを着せられて緊張して座っている様子が笑えます。
 そして弁舌爽やかなギャレットは楽々と少年の養育権を勝ちとります。かくして三人での同居生活が始まるわけで、自分の居場所を与えられて嬉し泣きする少年の笑顔が忘れ難いです。

 少年の生活環境は劇的に向上し、きちんと養護学校にも通い始めます。休日に三人で出かけて楽しく過ごす様子が実に幸せそうです。8ミリフィルムに撮影された映像が七〇年代風でした。
 少年が描いた家族の絵も「二人のパパと自分」と云うのが微笑ましい。
 そしてアランはオーディション・テープがハリウッドのプロデューサーの目に止まり、歌手への道が開き始める。ギャレットは職場の大きなプロジェクトに抜擢されることが内定する。
 万事めでたしで、このままドラマが終わってしまえばいいのにと思うのですが、そうはならないのが辛いところです。

 ある日、ギャレットが職場の上司のホームパーティに招かれたことが原因で、遂にゲイであることを上司に感付かれてしまう。しかもそれが原因で職を失するのが七〇年代の偏見です。
 アランにしてみれば「偽りの人生を捨てるチャンスよ!」となるのですが、ことはそう単純には運びません。「ゲイのカップルに少年の養育を任せておくわけにはいかない」と云う理屈が理不尽極まりなく、再び裁判所に呼び出され、養育権を取り消されてしまう。
 そこで引き下がらずらに法廷闘争に持ち込む二人です。子供を取り戻そうと母性むき出しで戦う母親(いや父親か)のアランの姿に、無償の愛を感じます。赤の他人の子供にここまで真剣になれるものか。特に、法廷で争うと云うことは、差別と屈辱に敢えて耐えねばならない。

 公の場で二人がゲイであることをあげつらう原告側の弁護士の態度があからさまです。イマドキなら、それこそがハラスメントだと訴えられますよ。
 中でも、ハロウィンのイベントで仮装したことと、ゲイの女装を強引に結びつける理論には呆れてしまいました。『フランケンシュタインの花嫁』の仮装は、女装とは次元が異なるのでは(まぁ、見ていて楽しいコスプレかどうかはともかくとして)。
 もう一つ判らないのは、ギャレットの職場の元上司の態度です。この問題に直接の利害もないのに、妙に積極的に裁判に関与してきます。ゲイを攻撃し、不利な判決を導くことでナニやら正義を執行しているらしい気でいるところがムカつきます。
 結局、少年本人がどう希望しようと、心ある養護教諭が公正な証言を行おうと、「ゲイが子供を育てては悪影響があるに違いない」と決めつける偏見は覆ることはない。

 その結果、どうなったか。あまりにも哀しすぎる結末には言葉もありません。これは惨い。
 淡々とその後の経過を手紙に綴るギャレットのナレーションに、劇場内のあちこちからすすり泣きが聞こえてきたほどです(女性客が多かったようで)。
 そして、失意のアランがステージで歌う「アイ・シャル・ビー・リリースド」も、その心情が痛いほど伝わる熱唱でした。本当にアラン・カミングの歌唱シーンは素晴らしいです。
 本作を鑑賞した後は、きっと涙なくしてチョコレートドーナツを食べることが出来なくなる……かどうかは存じませぬが、それまでより少し人に寛容に接することが出来るのではないかと思います。




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