2014年6月14日土曜日

ノア 約束の舟

(Noah)

 ダーレン・アロノフスキー監督による旧約聖書の「ノアの方舟」伝説を題材にしたスペクタクル映画です。CG特撮の進歩により、歴史映画も割と簡単にスペクタクルな場面を製作出来るようになりましたが、宗教的叙事詩映画もまた然りですね。
 期待したとおり、世界を滅亡させる大洪水シーンが圧巻であります。

 しかし「ノアの方舟」を映画にするというのも難しいですね。方舟伝説をネタにした映画や小説は多々あれど、それそのものを映画として観たことがあるのは一本だけです。
 その昔、ジョン・ヒューストン監督の『天地創造』(1966年)をTV放映時に観た記憶がありますが(日曜洋画劇場でしたっけ)、あれは聖書の創世記のエピソードをいくつも繋げたオムニバス形式の映画でした。「ノアの方舟」もその中の一つで、ヒューストン監督自身がノア役を演じておりました。
 それが今度は丸ごと一本の長編映画です(しかも一三八分)。

 本作でノアを演じているのは、ラッセル・クロウです。歴史大作映画には欠かせない方ですが、おかげで随分と凄みのあるマッチョなノアになりました。神の託宣を実行しようと鋼の意思で方舟を建造するのですから、これくらい頼もしくないとイカンですかね。
 しかも罪深いとは云え、洪水に流される人々を敢えて見捨てるという決断も下さねばならない人ですので、ラッセル・クロウの眉間の皺が深く、いつになく悲壮な表情が似合っています。

 ノアの妻ナーム役が、ジェニファー・コネリー。ここ数年、出演作を観ておりませんので、個人的には『地球が静止する日』(2008年)以来だったりします。相変わらずお美しいです。
 ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤフェトがそれぞれ、ダグラス・ブース、ローガン・ラーマン、レオ・マクヒュー・キャロルですが、見知っているのはハム役のローガン・ラーマンだけです。
 『パーシー・ジャクソン』シリーズの時よりもシリアス度アップなローガンくんが印象的でした。

 本作には、ノアの祖父メトセラも登場します。これを演じるのがアンソニー・ホプキンス(個人的には「メトシェラ」よりも「メトセラ」と表記する方が馴染みがあります)。
 メトセラは聖書では一番長生きした人ですが、劇中で年齢が語られることはありません。「まだ生きておられたか」とは語られますが。
 聖書の設定だと、アンソニー・ホプキンスは九六九歳です。それを云えば、ラッセル・クロウだって六〇〇歳。昔の人は長命だった──と云う設定は、本作ではスルーされているようでした。

 長男セムの妻になるイラ役が、エマ・ワトソンです。ハーマイオニーちゃんです。
 『ハリポタ』シリーズ完結後、主役の俳優さんは皆、固定されてしまったイメージを払拭するのに苦労しておられるようで、ダニエル・ラドクリフも『ウーマン・イン・ブラック/亡霊の館』(2012年)でヒゲを生やしてみたりしておられましたが、ハーマイオニーちゃんも同様のようです。
 本作ではエマ・ワトソンの出産シーンと云う、ある意味ちょっとショッキングな場面も拝めます。女優として覚悟を決めて演じておられるようでした。

 ところがノアの息子たちの中で妻を娶るのはセムだけ。聖書の記述では、方舟出航前に三人の息子たちにはそれぞれ妻がいたことになっているのですが、本作ではそのあたりが改変されております。
 おかげでローガン・ラーマンの焦燥がひしひしと感じられます。長男セトだけが妻を娶り、自分と三男ヤフェトは独身。これでは新世界で子供を設けることが出来ない。
 劇中では三男ヤフェトはまだ幼く、少年として描かれておりましたので、まったく危機感を抱いておりませんでしたが、ティーンエイジ後半な次男ハムの方は焦りまくり。

 まぁ、SF者として科学的にツッ込み入れるなら、例え息子たち全員が子供を設けようと、種族維持に必要な遺伝子の多様性は確保できませんので、端から聖書の記述は信用できませんですね(最低でも五〇人分の遺伝子プールが必要だとどこかの科学解説で読んだ憶えがありますぞ)。
 それに方舟に乗せる動物達も、雄と雌を各一匹ずつですから、そもそも到底科学的ではありません。そんなツッコミは野暮なことは承知の上ですが。

 しかしアロノフスキー監督としては、聖書に忠実に描写して、完全なファンタジーにするにもどこかで躊躇いがあったように見受けられます。
 冒頭から、創世記を引用しながら世界が出来上がっていく様子がダイナミックなCGで描かれていくのですが、「光あれ」から始まって、世界が形作られていく過程が、どこかの科学解説の教材のようです。
 ナレーションは聖書のとおりなのに、画面の方では何やらビッグバンらしいところから始まって、猛スピードで恒星が誕生し、銀河が形作られ、惑星が出来上がっていきます。どう見ても数十億年の時の流れを描いているのに、台詞の上では「一日目、二日目……」と語られていくのが可笑しかったデス。昔の一日って、長かったのねえ。

 生命が誕生してからも、スピードは緩まること無く、物凄い勢いで魚類が、両生類が、爬虫類が誕生していきます。どう見てもフツーに生命が進化していく様子なのに、ナレーション上は創造されたと云い張っています(神様、登場しませんけど)。
 そして地球は完成し、軌道上から生命に満ちあふれた惑星を映すのですが……。なんか大陸の形が妙です。ゴンドワナ大陸に見えるのですが気の所為かしら(少なくとも現在の大陸の配置ではありません)。
 エデンの園はゴンドワナ大陸上にあったのか。いや、でも時間の尺度的に人類が誕生したときには、もう大陸は分裂していたのでは……。科学と宗教の統合は難しいですねえ。

 そしてアダムとイブは楽園を追放され、その子供であるカイン(長男)によるアベル(次男)殺害が行われる。人類最初の殺人ですね。以後、カインの子孫達は栄えるものの、悪をまき散らし、地上を汚染していく。
 一方、アダムとイブにはまだ三男セトがおり、セトの末裔のみが善を為し、神を敬って生きていた──と云うところで、ドラマが始まるわけですが、劇中では登場する人間はほぼカインの末裔ばかりです。セトの末裔は、ノアの一族のみ。

 どうもセトの末裔は不毛の土地に追いやられて生活していたようですが、そこにもカインの末裔達がやって来る。不思議な鉱物、ツォハル鉱の鉱脈があるから、と語られております。
 本作では聖書の創世記以外にも、死海文書やら、エノク書、ヨベル書といった文献もリサーチされたらしく、創世記には馴染みのないものまで登場しております。
 ツォハルなる神秘的な石についても、エノク書あたりからの出典のようで、それをちょっとSFっぽく描写したのが、このツォハル鉱のようです。劇中では火薬のように簡単に発火し、お手軽なエネルギー源として重宝されていたと描かれています。
 カインの末裔達は自分達の生活のために、エネルギー資源を独占しようとしており、乱開発を止めさせようとしたノアの父レメクは、まだ少年だった息子ノアの目の前で殺されてしまう。

 レメクを殺害するのは若き日のトバルカイン。アダムから数えて七代目の子孫で、鍛冶の始祖だそうな。劇中でも、ツォハル鉱を応用したロケットランチャーみたいなものを作って撃ちまくっております。
 どうにも古代のストーリーと云うより、『マッドマックス』的な「文明崩壊後の世界」を思わせるSFのようです。あるいは別の惑星上の物語とか。
 劇中では、方舟に乗り損ねて絶滅してしまったらしい架空の生物も登場するので、ますますSFのようでした。いっそ本当に「聖書ネタのSF」にしてしまえば良かったのに。

 SF的設定の最たるものがグリゴリ。本作では異形の巨人として登場します。
 グリゴリとはエノク書に登場する堕天使の一団で、ギリシャ語の「見張る者」が原義だそうな。劇中でも「ウォッチャー=番人」と呼ばれております。
 元は光り輝く生き物で、創世の二日目に誕生したが、地上に堕とされ、泥と岩に表面を覆われた岩石生物のような形状です。
 グリゴリは勿論CGキャラですが、ニック・ノルティや、フランク・ランジェラといった名優が声を当てております。

 まぁ、ノアとその家族だけで巨大な方舟を作るのは無理がありますからね。本作では、方舟建造の主要な労働力として、グリゴリ達が活躍しております。月日は流れ、方舟は完成しますが、正確な建造期間は判りません。結構、ラッセル・クロウも老けました(しかし堕天使の力を借りて完成させると云うのはよろしいのデスカ)。
 方舟の形状も、『天地創造』では割と船に近い形をしておりましたが、本作では完全な直方体です。船と云うよりも、砦か要塞のように見えます。そもそも内陸部で建造しているので、これを船と云い張るのが無茶ですが。
 劇中の方舟の寸法が聖書の「長さ三〇〇キュビト、幅五〇キュビト、高さ三〇キュビト」と云う寸法の通りなのかはよく判りませんが、とにかくデカいです。

 方舟が完成に近づくと、動物達の方から勝手に乗り込んでくるのは『天地創造』と同じですね。来るものは拒まずで迎え入れたノアは、不思議な香を焚いて動物達を仮死状態に眠らせます。リアルに描こうとして、ヘンなところで理屈を捏ねたフォローが入るようです。
 この頃になると、方舟の存在はカインの末裔達も知るところとなり、トバルカイン達が大勢を引き連れてやって来ます。王となったトバルカインを演じているのは、レイ・ウィンストンです。悪役が似合う人ですね。
 しかし動物達を乗せはしたが、人間達には一切の乗船を拒否するノア。そうこうする内に天候も崩れ始め、雨はやがて大雨になり、嵐になり、未曾有の洪水となる。

 方舟を奪おうとするトバルカインの軍勢と、方舟を防衛する堕天使達の激突が迫力ある戦闘シーンとなって展開します。もはやどの辺が聖書なのかよく判りません。
 岩の巨人も、トバルカインのロケットランチャーの前に一人また一人と倒されていく。
 結構、トバルカインが勇ましくて戦闘シーンではこっちを応援したくなります。

 方舟争奪戦はカインの末裔対セトの末裔の図式となり、人類の行く末を決定する戦いのように描かれております。まぁ、最後はノアの方が守りきるのですが、一方的に滅ぼされてたまるかと云うトバルカインの言い分にも一理あったりします。
 トバルカインは傲慢だし、悪党ではありますが、それだけに人間的であり、レイ・ウィンストンの演技が素晴らしかったです。
 逆に、神の託宣に従って、助けを求める人々まで見捨ててしまうノアの方が非情であり、次第に狂気を孕んでいるように見受けられ、この父親に従うのは正しいことなのかと疑念に取り付かれる次男ハムの迷いは、なかなか興味深い解釈でした。

 このあたりからアロノフスキー監督の解釈が聖書から大きく逸脱し始め、ノアの真意は人類の救済では無いとか、新世界には人間は必要無いなどと語られます。次男や三男に妻を娶らせないのも、子供を作らせないためだと明かされる。
 逆に、長男セムの妻イラの乗船を認めたのは、イラが不妊であるからで、ノアの思惑を外れてイラが出産した途端に、孫である赤ん坊を始末しようとまでします。
 本作では、ノアが極端な環境保護活動家のようにも描かれておりまして、異論のあるキリスト教徒の方も大勢おられるのではないかと思われます。

 全体的に、現代の環境破壊に通じるような比喩的描写が見受けられ、寓話としては理解できるのですが、それを「聖書の物語」であると云い切るのは如何なものか。云いたいことは判りますけどね。
 葛藤の末に、新世界(多分、アララト山麓)到着後はノアも少し改心し、人間の存続を認めて、長男夫婦を祝福したりするのですが、配偶者を得られずに家族の元を去って行く次男ハムが一番可哀想でしたねえ。
 結局、「セトの末裔ノア」と「カインの末裔トバルカイン」の間で揺れ動く次男ハムの姿に、本作一番のテーマを感じるのですが、ノアもトバルカインも極端すぎてついて行けません。人間、中庸が一番であると痛感しました。




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