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2014年5月22日木曜日

機動戦士ガンダムUC

episode 7 「虹の彼方に」

 いよいよ最終エピソードとなりました。いや長く待たされました。前作「宇宙(そら)と地球(ほし)と」から丸一年ですねえ。始まったのが二〇一〇年ですから、もう四年前か。
 『宇宙戦艦ヤマト2199』の方が後から始まったのに、先に終わってしまいましたよ。
 それなりの品質のためには、待つのもやぶさかではないとは云え、長かったデス。

 本作の上映は期間限定のイベント上映ですから、最初はシネコンの中でも小さなスクリーンで上映されるミニシアター並みの扱いでしたが、どんどんスクリーンが大きくなっていき、遂に一番大きなスクリーンで上映されておりました。
 シネコンのロビーに、完成したガンプラがケースに入れられて陳列されているのもスゴイが、「フル・フロンタル専用オーリス」なんぞと云う代物まで、劇場入口に展示されておりました。
 でも「シャア専用オーリス」よりも装飾過剰だったので、アレで公道を走るのはキツいか(ほとんど痛車も同然)。

 今までは一話六〇分程度の尺でしたが、最終話は一一五分。やはりこれで最終回となると、気合いの入れ方が違うのか。これでは実質八話構成なのでは……と思ったら、第七話の前に第〇話が付いていたので長くなったようです。
 ep.EX 「百年の孤独」と表記されておりましたが、早い話が長い長いダイジェスト。
 第七話だけでも尺が割増されているようですが、そこに長めのダイジェスト(約25分)を付けるので二倍近くに膨らんだようです。これが『機動戦士ガンダムUC』を一話からなぞるだけで無く、そもそもの始まりから語っていく趣向で、ファースト・ガンダムやら、Zガンダムやら、ZZやら、νガンダムまで登場するサービスぶり。

 かつてのTVシリーズや劇場版の名場面も編集し、宇宙世紀の歴史を俯瞰しようというもので、それなりに面白かったものの、さすがに三〇年以上昔のアニメの画面と、最近のアニメの画面をつないで観てしまうと、その質の差に愕然としてしまいます(それは仕方ない)。
 ダイジェストで語られるストーリーよりも、見た目の差が歴然としていることの方に注意が向いてしまって困りました。
 ユニコーンガンダムの起動シーンに、歴代ガンダムの各起動シーンをオーバーラップさせる演出には、結構燃えるものがありましたね。

 これらの歴史を語るナレーションは、故永井一郎氏でした。全体として、サイアム・ビストが宇宙世紀を振り返っていると云う趣向でしたが、本作で永井一郎氏(2014年1月27日没)の声を再び耳にすることが出来て、嬉しかったです。本作の収録は随分と前に行われていたのか。

 さて、長いダイジェストが終わりますと、最終話「虹の彼方に」です。『オズの魔法使い』か。
 前回で明かされた〈ラプラスの箱〉の最終座標が、出発点であるインダストリアル7にあったと云う、何やら拍子抜けするような真実でありましたが、これが『オズの魔法使い』であるなら、本シリーズは「サイアム・ビスト=オズ」に面会するまでの、長い回り道であったということなんですかね。
 してみると「オードリー=ドロシー」のお供は、バナージ(勇気の足りない人)とマリーダさん(愛情の足りない人)とリディ少尉(頭の足りない人)……なのかな。
 しかしサイアムの手許に〈ラプラスの箱〉があったと云うのは、もの凄く当たり前すぎて、ちょっとツマランです。

 ともあれ、〈ラプラスの箱〉をめぐっての最後の争奪戦です。冒頭から激しい戦闘が気合い入れまくりの作画で展開しております。
 そうそう、こういうのが観たかった。やはり前回は少々地味なエピソードでしたが、緩急つける演出なのはお見事デス。もう最終回はひたすらモビルスーツ戦が手を変え品を変え描かれていきます。

 先行する〈袖付き〉の旗艦レウルーラに追いすがるネェル・アーガマ。更に後ろから追撃してくる連邦軍艦隊(旗艦はゼネラル・レビル)。
 ユニコーンガンダム対バンシィ、ローゼン・ズール対クシャトリア、更にユニコーン対ローゼン・ズール、バンシィ対クシャトリアと、複雑に対戦相手を代えながら激しい戦闘が続きます。
 ネェル・アーガマの防衛についたジェガンや他のモビルスーツに見せ場があるのは嬉しいです。そして前作で男を上げたオットー艦長は、敵だったジンネマン艦長を戦闘アドバイザーとして迎え入れるという懐の深さも見せてくれます。二人の艦長が協力し合う図は漢燃えデス。
 ハイパーメガ粒子砲も、さすがは「伝家の宝刀」。安売りしない演出が重厚でよろしいデス。
 でもオットー艦長は「弾幕が薄い」とは云ってくれませんでした。まぁ、ブライト艦長じゃないからねえ。
 本作にもブライト艦長の出番はありますが、戦闘には直接関与しないので、遂にあの名セリフを本シリーズで聞くことは出来ませんでした(四年も待ったのに……がくり)。

 そして戦闘しながらも、皆さん喋りまくり。やはり富野アニメの伝統を受け継ぐガンダム・シリーズの端くれですね。
 必死にリディ少尉を説得しようとするバナージですが、もはや半分強化人間みたいになってしまったリディ少尉は聞く耳持たず(マリーダさんの時と同じですね)。異様に憎悪だけを増幅された状態はかなりアブない。「マシンに呑まれている」と表現されています。
 この時代、もはやモビルスーツは人間の意思に反応して動く、半ばサイキックなマシンなのでフィードバックが強すぎると人間の側が操られてしまうもののようです。

 本作では、サイコミュを搭載したモビルスーツは「サイコマシン」なんぞと呼ばれております。一般的なモビルスーツとは一線を画するもののようで、ユニコーンもバンシィもサイコフレームを搭載しているので「サイコマシン」の範疇か。
 だからモビルスーツ戦も、フツーにビームライフルを撃ったり、ビームサーベルで斬り結んだりするのは、雑魚のやることにされてしまった感があります。
 主役級のモビルスーツ同士なら、サイコミュ戦になって当たり前。
 しかも通常のサイコミュがだんだん時代遅れになっていくようにも描かれており、最初は優勢だったローゼン・ズールが、ユニコーンがサイコフレームを発動させた途端に劣勢に立たされます。もう最初からサイコミュを搭載していなくても、フレームの共振だかナンだかで「只のシールド」を思い通りに操り始める。

 本作での戦闘は後半になっていくほど現実離れしていくような感じです。
 モビルスーツ同士のリアルな戦闘が、次第にサイキック・バトルのようになっていきます。まぁ、サイコフレームを使えば何だって出来ると云うのは、『逆襲のシャア』(1988年)でも描かれましたからね。
 「人の意思の力が星さえも動かす」なんてことをやってしまったあとですから、それ以上のことをしないとイカンと云うのは判りますが……。
 もはや人間離れと云うかメカ離れしてしまい、物理法則も無視しているように見受けられます(多分、何らかの法則に則ってはいるのでしょうが、観ている側に説明は無い)。

 前作のレビューで、私は「リディ少尉が前座の雑魚扱いになるのでは」と書いてしまいましたが、実際に雑魚になったのはアンジェロ大尉の方でした。本気を出したユニコーンの前にあっさり撃破。
 一方、リディ少尉の方はマリーダさんが一命を賭して正気に戻してくれました。しかし払った犠牲は大きすぎる。せっかくジンネマン艦長を「お父さん」と呼べるようになった と云うのに、これは哀しい。
 しかも死後、魂となってオードリーやジンネマンの元を訪れる。ここは泣ける場面です。
 ではありますが……。 

 しかしどうなんでしょうね。死者の魂が生者の元を訪れるとか、思念で会話するとか、確かにガンダム・シリーズの路線を踏襲しておりますが、あまりスピリチュアルな描写になるのも如何なものか。
 突拍子も無いことをやっているのではなく、「過去のシリーズでやったこと」をアレンジしているだけなのは判りますが、そのスピリチュアルな描写はイマイチ受けなかったのでは……(TVシリーズの『Zガンダム』の最終回とか)。
 そのアレンジの最たるものが、ララァが死に際にアムロに語った「刻(とき)が見える」と云う台詞。本作ではそれを本当に画にして見せてくれます。いや、別にそんなものを見せてくれなくても良いのに。と云うか、想像の余地を奪うので、ソレはやっちゃイカンじゃろー。

 何となく、CGで何でも見せられるようになったのでホラー映画がつまらなくなっていくのと同じ事をやっているように思われました。
 ネオ・ジオングのサイコフレームはユニコーンガンダムすら凌ぐと云うのは判りますが(敵メカの方が強くないとね)。
 フル・フロンタルは自分が見たものを強引にバナージにも見せようとするわけで、ジオン驚異のメカニズムはタイムマシンまで作り出したようです。無論、物理的に時間移動するのではなく、搭乗者の意識だけ時間を越えるシステムですが、それでも充分スゴイわ。
 おかげでバナージは、見たことのない過去の戦争のイメージを目の当たりにします(一年戦争から第二次ネオ・ジオン抗争まで)。手っ取り早く「人間は進歩しない」ことを教えようとするのはいいとしても、今度は未来にまでバナージを連れて行きます。

 そして遂にネオ・ジオングは、時果つるところまで行ってしまう。
 宇宙の終焉。熱力学第二法則が示唆するエントロピー増大の極限、宇宙が熱的死を迎えるところまで。なんと極端な。
 それで「最後にはこうなるのだから全ては無駄なのだ」って、イヤそんな極端なことを云われましても困ります。と云うか、ララァの見た「刻」とソレはまったく違うものなのでは。
 それに「熱的平衡」は古いSF者には馴染み深い(ちょっと福井晴敏に共感)ですが、最近の宇宙論ではその概念は疑わしいと……。

 結局、「それでも!」と抵抗し続けるバナージの精神力に、フル・フロンタルの方が根負けしてしまう。サイコフレームの共鳴に「命が吸われてしまう」と云う表現が『逆襲のシャア』にもありましたが、まさにそのようになってフル・フロンタルも昇天です。最大の敵役の死に様がそんな間抜けでいいのかしら。
 一応、フル・フロンタルはシャア・アズナブル本人では無い、と云う確証は得られたものの、フル・フロンタルの出自についてはスルーされてしまい、詳細は明かされずじまいです。宇宙の終焉より、そちらの方が知りたかったのに。
 まぁ、このあと、「すべてを無かったことに」しようとするビスト財団の企みがあって、ユニコーンとバンシィがそれを阻止するわけですが、もう神懸かり状態のガンダムには不可能はありませんです。コロニーレーザーを蹴散らしたところで驚くようなことでも無い。

 しかしこれで『機動戦士ガンダムF91』に、どう繋がっていくんでしょうね。
 『F91』では、宇宙世紀も一二三年となり、大きな戦乱もなく数十年が経過した世界が描かれておりましたが、それを考えるとサイアムから託された〈ラプラスの箱〉を開示したオードリーの業績は、それなりに成果を上げたと云うことになるんですかね。
 〈ラプラスの箱〉の正体については、私の予想は当たらずとも遠からずでした。この手の代物は「重要なものほど小さい」ことになっていて、大抵は「文書」、「契約」、「条約」の類になると相場は決まっているのデス(物質よりも思想や概念の方がより重要ね)。

 『F91』の世界では、もしオードリーやバナージが存命していれば、中年になる筈ですが、そのあたりの時代でまた次なる物語を……と云う訳にはいきませぬか。『F91』の続編は、もう待っても無駄なのかしら。
 まぁ、何だかんだ云っても、更に未来へ行くと、バイク戦艦なんぞと云うトンデモな代物が地上を蹂躙したり、何もかもが黒歴史になって、文明が退行して、ガンダムがヒゲを生やしたりしてしまうワケなので、何をどう繋いでも、虚しいと云えば虚しいのデスが。
 フル・フロンタルも「宇宙の終焉」なんかより、そっちを見せた方がバナージの心を折れたかも知れません(何事も行きすぎてはイカンのですね)。

 ともあれ、四年間お疲れさまでした。




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