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2014年1月10日金曜日

ネオ・ウルトラQ Part.3

(NEO ULTRA Q)

 恒例のイベント上映も第三回目です。毒を食らわば皿まで。こうなったらもう全四回のイベント上映を制覇してくれるわ、と心に決めておりますが、知人を誘うと「冒涜的作品を出費してまで観るのはイヤだ」とすげなく拒否られました。まぁ、気持ちは判らないでもない……。
 今度もまた観終わったら終電間際なのかと思いきや、若干早めに始まってくれるようになったのが有り難いデス。上映時間についてはクレームが多かったのか、劇場側が配慮してくれたのか、どちらでしょう。

 毎度の事ながら劇場内は閑散としております。年齢層の高い層(私もね)がチラホラと十数人。男性オンリー。その上、今回はどこからかいびきまで聞こえてきました。
 でも劇場マナーがどうとか云う以前に、観に来ている客層がどう見ても「仕事帰りでお疲れのお父さん達」ですから、きつく責めるのも可哀想な気がします。
 この時間帯に上映しているのも一因でしょうし。特撮ファン同士ですからねえ。「それでも観に来たのだ」と云うことの方を誉めてあげましょう。
 私も余程つまらないエピソードだったら寝オチしてしまうかも知れませんでしたし(汗)。

 ほとんど『総天然色ウルトラQ』が目当てではありますが、とりあえず『ネオ・ウルトラQ』を観ても眠気に襲われることは無かったです(まぁ、お金払ってますし。勿体ないからねえ)。
 さて、今回のラインナップはこちらです。

第3話 「宇宙(そら)から来たビジネスマン」 脚本・いながききよたか、山本あかり/監督・入江悠
第5話 「言葉のない街」           脚本・いながききよたか/監督・中井庸友
第1話 「クォ・ヴァディス」         脚本・いながききよたか/監督・石井岳龍
『総天然色ウルトラQ』 第19話 「2020年の挑戦」 脚本・金城哲夫、千束北男/監督・飯島敏宏

 今回の『ネオ・ウルトラQ』は三つのエピソードで、宇宙人、ロボット、怪獣とバラエティに富んだ内容にしているようですが、やはりシリーズを通して「怪獣エピソード」が少ないような気がしてなりません。旧作の『ウルトラQ』にも怪獣抜きのエピソードはありましたが、それほど多くはなかったのに。
 イマドキは怪獣ものは作り辛いのか(予算の都合か)。しかし巨大怪獣が出ないと、どうにも『トワイライト・ゾーン』や『アウター・リミッツ』的なエピソードに思えてしまうのですが。ぶっちゃけ、フジテレビの『世にも奇妙な物語』と大差ないような(あれも元を辿れば『トワイライト・ゾーン』ですから)。
 出来としてはそれほど悪くないエピソードもあるのですが……。

第3話 「宇宙(そら)から来たビジネスマン」
 価値観は人それぞれである。ある人にとっては無価値なものも、別の人にとってはかけがえのないものになり得る。美醜の基準もまた然り。
 売れっ子トップモデル美樹の突然の失踪事件を追跡していた絵美子さん(高梨臨)は、ヴァルカヌス星人と名乗る奇妙な男の元に辿り着く。実は、ヴァルカヌス星人は美樹に絶世の美貌を与える代わりに、一定期間が経過した後は母星に連れ帰る契約を交わしていたのだ。美樹を解放させる条件として、代替物を探すことを約束した絵美子さんは、南風原と協力してヴァルカヌス星人の嗜好に合った「あるもの」を集め始める。

 第8話「思い出は惑星(ほし)を越えて」と同じく、日常の中で堂々と「宇宙人です」と名乗る奇妙な人が現れます。イマドキはそんな人達が跋扈していても不自然ではないのか。とりあえず人間型ですし。
 このヴァルカヌス星人、肌にちょっとしたウロコが見えたり、手の先に鈎爪が付いていたりと、トカゲ型の異星人が人間に化けているといった風ですが、押さえた特殊メイクと俳優の演技が異質な人間であることを巧く感じさせてくれました。ビミョーに言葉遣いがヘンであるのが面白いデス。

 実はヴァルカヌス星人が珍重するのは、負の精神エネルギー。元は美人ではなかった美樹は、世間を恨んでドス黒い感情を胸の内に溜め込んでおり、それがヴァルカヌス星人には大層、美しく見えていたという訳で、南風原達は負の精神エネルギーを収集する装置を開発して集めて回る。
 しかし、街で見かけた詐欺師から「負の精神」を抜いてしまうと、善人になりすぎて、生きていけなくなると云うのが可笑しいです。人間には負の感情も必要なのか。
 代わりに今度は、土地に染み付いた負の感情を収集することにして、都内のあちこちから残留思念を集めるのですが、国会議事堂前からは特別にドス黒いナニカが収集できそうです。
 宇宙人と云えども契約を重んじるビジネスマンですし、悪さをするわけではないとは云え、母星への帰還前に送別会まで開いてあげる南風原さん達の図が笑えました。
 価値観の相違は人それぞれである、と云うオチで巧くまとまりましたが、『ウルトラQ』としてはどうなんでしょう。

第5話 「言葉のない街」
 人間のコミュニケーションは、七%が言語、三八%が口調、残りの五五%は身振り手振りであるという。実は言葉はそれほど重要では無いのかも知れない。
 言語によるコミュニケーションを必要としない人造人間エピゴノイド。余りにも察しが良すぎて、相手の感情を会話すること無く理解してしまえるので、有能なホームヘルパーとして重宝される。だがあるとき出荷されたエピゴノイド全員が一斉に行方を眩ませてしまった。
 南風原は正平くんと絵美子さんを伴い、無口な人達が住まう不思議な屋敷を訪れる。

 ロボットとは云え、エピゴノイドは人間そっくりなので、着ぐるみなど使わず役者がそのまま演じておりますが、あまりにも美男美女ぞろい。この不自然なまでに美形であることが異質さを感じさせる巧い演出でした(全員が白いタートルネックを着用しているのもいいですね)。
 演じているのはファッションモデルの方々ですが、いかにもな人形ぽさが素晴らしいです。

 失踪したエピゴノイド達は、開発者である今は亡き博士の屋敷を買取り、そこでひっそりと暮らしていたわけですが、全員が互いに相手の意思を感じ取れるので、まったく喋らない。しかし喋れないわけではなく、南風原や絵美子さんを前にやむを得ず言葉を口にします。
 実は、開発者である博士はエピゴノイドを「真の愛」を探求する為に作り上げたが、エピゴノイドは相手の心情を完璧に理解してしまうので、愛が芽生えなかったと云うのが皮肉です。

 このエピソードも、色々とドコカデミタ感を感じさせてくれました。これもオマージュでしょうか。
 まず、「家庭用ロボットの失踪」と云うネタが、手塚治虫の『火の鳥・復活編』に登場したロビタを思わせてくれます。また、全体の雰囲気が六〇年代のヨーロッパ的SF映画のようでもありました。
 しかし「美男と美女を向かい合わせにして、キスを命じる博士の図」と云うのは何でしょうね。アンディ・ウォーホール監督の『悪魔のはらわた』(1973年)を連想してしまうのですが(ちょっと笑ってしまいました)。

 「人間は信じたいことだけを信じる」とか「相手の心情が判らないからこそ、愛は生まれるのだ」といった主張には肯くところが多いです。「不完全な状態こそが望ましい」といった逆説的な結論も好きなのですが、やっぱのその……『ウルトラQ』としてはどうなんでしょうねえ。

第1話 「クォ・ヴァディス」
 太陽黒点の異常により怪獣が出現するが、特に何をするでもなく歩き回るのみ。古文書の記述から、過去にも出現したことが推測できるが、怪獣の目的は不明のまま。一体、どこへ向かっているのか。

 やっと怪獣の出現するエピソードですが、これもまたサイズがビミョーです。とりあえず人間より大きいが、四~五メートル程度でしょうか。歩く樹木のような外見です。造形は見事ですが、イマイチ全体的な姿が掴みづらかったです。
 あまり器物を損壊せず、火を吹いたりもせず、信号も守って(笑)、ただ徘徊するだけの怪獣に、騒ぎ立てる周囲の人間達の愚かしさばかりが強調されるエピソードでした。怪獣は人間を映し出す鏡であると云うのはよく判りますが、皆さんちょっと感情的になりすぎなのでは……。

 風刺的な演出や、人里離れた木立の中でのロケに、実相寺昭雄監督の『ウルトラQ ザ・ムービー/星の伝説』(1990年)を連想したりしました(やはり記念すべき第一話だからか)。古文書に記載された「爾流王仁恵」の表記から、怪獣の名前を「ニルワニエ」と呼んだりするのもそうですね。
 怪獣は自然現象に近いもので、それに対して恨んだり、怒りをぶつけたりしても、詮無きことであると云うのはよく判りますが、最近の怪獣ものはやっぱりこの手の結論に落ち着いてしまうのでしょうか。
 劇中では、「怪獣の所為で妻子を失った男」が登場しますが、『ネオ・ウルトラQ』ではそこを描いたものはありませんですねえ(よもや残りのエピソードにあるのか?)。

 第9話「東京プロトコル」もそうでしたが、怪獣そのものよりも、それと向き合う人間達のドラマになってしまうのが、いながききよたか脚本の特徴なんですかね。
 タイトルの「クォ・ヴァディス」はラテン語で、聖書からの引用ですが、本エピソードはキリスト教とは……まるで関係なかったですね。それとも怪獣は神様なのか。それもまた日本的な解釈です。

 そして『総天然色ウルトラQ』から「2020年の挑戦」です。タイトルだけ見ると、次の東京オリンピックのキャッチフレーズみたいです。まさかこんなことになるとは。

 いやぁ、何を云うにしても、小林昭二が若いッ。
 他にも、劇中に登場する赤い公衆電話やら電話ボックスやらが懐かしすぎます。もはや現代では見ることの出来ない風景です。
 やたらと登場人物がタバコを吸いまくったり、セリフに「キチガイ」を連発しているのにも時代を感じます。地上波では放送できないじゃないですか(笑)。

 臓器移植で五〇〇年以上生き続けているケムール人の文明が二〇二〇年しか続いていないと云うのも、ちょっと勘定が合わない気がしますがキニシナイ(西暦とは関係ありませんでしたか)。

 それにしても、もう二〇二〇年なんて六年後ですよ。既に自分は近未来に生きている……ハズなのに、あまり未来ぽく感じられませんです。電気自動車とかもまだ普及には遠いし。
 東京オリンピックが開催される暁には、是非とも聖火ランナーのひとりに「ケムール人の格好」をしてもらい、聖火を掲げてパトカーの前をフォッフォッフォッと走っていただきたいものです。誰かやらないかな。




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