2014年1月31日金曜日

ハンナ・アーレント

(Hannah Arendt)

 実在した哲学者ハンナ・アーレント(1906-1975)を描いたドイツ、ルクセンブルク、フランス合作の歴史ドラマです。ドイツ生まれで、二〇世紀を代表する哲学者マルティン・ハイデガーにも師事した世界的に有名な哲学者。すいません、本作を観るまでは存じませんでした。
 ドイツ生まれのユダヤ人で、ナチスのユダヤ迫害によりフランスに亡命し、更に第二次大戦勃発後はアメリカに亡命したと云う経歴の持ち主。
 本作は、そのハンナ・アーレントが傍聴した「ある裁判」と、それに関する評論記事を発表をした時期に焦点を当てて描いております。

 その裁判とは、元ナチス親衛隊中佐でホロコーストに関わったアドルフ・オットー・アイヒマンの裁判。
 戦後、南米に逃亡していたアイヒマンがイスラエル諜報部モサドによって発見され、戦犯として裁かれることとなり、その裁判を傍聴したハンナが、傍聴を通じて到達した「ある考察」をめぐってトラブルに巻き込まれていく、と云うのが本筋。
 ミニシアター向けの文芸作品ではありますが、最初に上映された都内の岩波ホールでは連日満員、うちの近所のミニシアターに上映が巡回してきたときも、やっぱり最初は満員御礼で、やむなく出直して、ようやく鑑賞できました。

 本作の監督はマルガレーテ・フォン・トロッタ。女優から始めて監督に転身した方だそうで、今やドイツを代表する映画監督兼脚本家だそうな。「ニュー・ジャーマンシネマ」の担い手のひとりで、ヴェルナー・ヘルツォークや、ヴィム・ヴェンダースのお仲間ですね。
 本作でもトロッタ監督は脚本も務めております(本作は共同脚本作品ですが)。
 ヴェネチア国際映画祭で金獅子の受賞歴があるとか、今までの監督作品を挙げられても、さっぱり馴染みがありませんです(汗)。

 しかし、ドイツ人監督がナチスの戦犯裁判を描くと云うあたりで、既に並々ならぬものを感じます。
 本作の劇中で、ユダヤ人として迫害を受けたハンナ・アーレントが、ナチスの戦犯裁判を冷静に傍聴できるのかと問われたりする場面もありましたが、監督自身もまた本作を制作するに当たって、かなり難しく感じるところがあったのではないかなぁ、などと考えてしまいます。
 私情を交えず、冷静に公平さを貫くことは、実はとても難しいことなのだと痛感いたしました。

 主人公のハンナ・アーレントを演じているのは、バルバラ・スコヴァ。タバコ嫌いだそうですが、ヘビースモーカーの哲学者を熱演しておりました。
 トロッタ監督とは何回か一緒に仕事をしていた仲だそうですが、そっちの方面は観ておりませんです。むしろ、マイケル・チミノ監督の『シシリアン』(1987年)とか、デイヴィッド・クローネンバーグ監督の『エム・バタフライ』(1993年)への出演の方なら憶えがあります(かなり微かに)。
 でもSF者として一番馴染み深いのは、ウィリアム・ギブスン原作で、ロバート・ロンゴ監督の、あの超絶B級SF映画『JM』(1995年)でしょうか(キアヌ・リーヴスがゴールデンラズベリー賞最低主演男優賞にノミネートされたアレな)。バルバラ・スコヴァはキアヌの敵である巨大企業の創設者の役でした。あまり出番のある役ではない──北野武やドルフ・ラングレンの影に隠れて──ですけど、この作品が一番よく思い出せるぞ。

 でも一番、馴染み深い出演者は、ハンナの親友メアリー役のジャネット・マクティアですね。『アルバート氏の人生』(2011年)に塗装職人ヒューバート役で登場し、グレン・クローズと共演しておりました。あのときの男装姿は実に印象的で男前でした。
 本作では髪も長くなって、ヒューバートさんの面影は少ししかありませんデス(そりゃそうだ)。

 他には、アクセル・ミルベルク、ウルリッヒ・ノエテン、ミヒャエル・ゲーデン、ユリア・イェンチといったドイツ人俳優の方々が共演されておりますが、やっぱり馴染みがない……。『ヒトラー 最期の12日間』(2004年)とか、『ゲーテの恋/君に捧ぐ「若きウェルテルの悩み」』(2010年)とか、ドイツ映画もそれなりに観ているとは思いますが……。

 冒頭で、まずハンナ・アーレントとは何者かという簡単な字幕説明が表示されますが、これは日本オリジナルのものでしょう。やはりフツーの人は、私と同様に馴染みがないのだ(ちょっと安心)。
 まずは、夜の田舎道を走ってくる一台のバスが映ります。
 バスが停車し、男がひとり降りる。バスが行ってしまい、男が寂しい夜道を歩き始めたところで、後方からトラックがやってきて、追い抜きざまに数人がトラックから飛び出し、強引に男を拉致していく場面となります。
 一切の説明はありませんが、これがモサドがアイヒマンを捕らえた瞬間であったと云う次第。

 場面変わってアメリカはニューヨーク。大学講師となっているハンナも、アイヒマン逮捕のニュースを知るところとなる。裁判はイスラエルで行われると報じられ、その裁判を傍聴したいと有名週刊誌「ザ・ニューヨーカー」の発行元に直訴する。
 このとき既にハンナ・アーレントは代表作『全体主義の起原』を著しており、そんな名のある哲学者がアイヒマン裁判の傍聴記録を書いてくれるならと、編集長は大喜び。学者先生は締切を守りませんよ、と云う周囲の懸念も押し切って、ハンナをイスラエルへと送り込む。

 本作の主な背景はアメリカですので、登場人物達は英語を喋っておりますが、ハンナのアパートに亡命ユダヤ人の知り合いが集まる場面では、ドイツ語で論争したりします。おかげで一緒にいるジャネット・マクティアにはチンプンカンプンと云うユーモラスな場面もあります。
 話題の中に、一九六〇年の合衆国大統領選挙のことが入っていて、ケネディはこうだ、ニクソンはああだと論評されており、時代背景が判り易くなっています。
 場面がイスラエルに移ってからは、今度はドイツ語の他にヘブライ語が会話に混じってきたりします。旧友の中にはイスラエル建国後、移住して家庭を持っている人もいますし、なかなかバイリンガルな演出になっていました。
 ハンナの知り合いは皆、アイヒマン裁判について一家言持っている。やはりユダヤ系の人には見過ごしに出来ないのですね。

 そして裁判が始まり、ハンナは初めてアドルフ・アイヒマンの実物を見る。
 冒頭の拉致される場面や、入廷する際に後ろ姿が映るときのアイヒマンは役者が演じていましたが、顔を見せない演出になっていまして、いざ証言をはじめたときに初めて正面から顔が映ります。ここではアイヒマン本人の映像が使われています。
 裁判記録の映像がそのまま使われていて、本作はこの場面だけでも一見の価値ありと申せましょう。非常に興味深い映像でした。
 勿論、モノクロ映像なので、傍聴人や判事達はカラーなのに、被告だけがモノクロと云うのはちょっと不自然ではありますが、本物の迫力の前では些細なことです。
 一応、アイヒマンの姿は白黒のモニタ画面に映っていると云う演出になっているので、何とか切り抜けています。
 また、証言者の何人かも当時の映像がそのまま使われているようでした。

 それにしても、冷酷な殺戮者、情け無用のSS将校と云われてきた男の実像が、あまりにも頼りなかったので、ちょっと拍子抜けしました。頭髪の薄い、黒縁眼鏡の、冴えない中年男性です。喋り方にも覇気が無い。
 これが本当にアドルフ・アイヒマンなのか。ギャグじゃ……ないよなぁ。
 まさに「小役人」と云う表現がぴったり。

 そして本当にアドルフ・アイヒマンとは、ただの小役人であったと描かれ、傍聴するハンナはあっけに取られる。アイヒマンはユダヤ人の生死に関心など無く、ただ単に上からの命令に従い、数百万人を強制収容所送りにする移送任務を指揮していたに過ぎなかったのだ。
 だがそれを友人に語ると、猛烈に反発される。「アイヒマンが反ユダヤじゃ無い? どうかしてるぞ!」
 迫害されて生き延びたユダヤ人にとって、憎むべきアドルフ・アイヒマンとは「ユダヤ人絶滅を企んだ極悪人」でなければならないのだと云う決めつけが哀しいです(客観的になれないのも判りますが)。

 しかし実際にハンナ・アーレントはそのように論評した記事を発表するわけで、ニューヨーカー誌に掲載された途端に、編集部がクレームの嵐に見舞われる。ハンナの元にも脅迫状めいた手紙が山のように送られてくる。
 一応、ごく僅かながらハンナを称賛する人もいたのが救いではありますが、秘書が分類した「こっちが称賛の手紙、こっちが非難の手紙です」と云う場面の圧倒的な物量の差には笑ってしまいます。
 しかもハンナはアイヒマンが任務を遂行するに当たって、役人であるアイヒマンに協力したユダヤ人指導者も批判したので、更にややこしくなっていきます。

 冷静に考えれば当然ではあります。単なる小役人がホロコーストを一人で遂行できたわけが無い。ユダヤ人の側にも協力者がいたのである。
 ハンナ自身も、フランスにあった収容所で辛い体験をしており、当時のヴィシー政権がユダヤ迫害の片棒を担いでいたと云う事実をアメリカ人に信じてもらえない場面もあります。
 これはタチアナ・ド・ロネ原作の『サラの鍵』(2010年)でも描かれていたことですね。

 「同胞への愛が無い」と見当違いに非難され、長年の旧友からは絶交される。アイヒマン擁護の学者だと、社会的な非難にもさらされる。現実には、アイヒマンは死刑判決を受けて絞首刑になり、そのこと自体は間違いではないと云っているのに、誤解され続けています。
 しかしそれでも信念に基づいた意見は曲げません。これは勇気があると云うよりも、それ以外にどうしようもないと云う風に描かれていたように思われます。保身のために意見を翻すなど出来ないのは立派ではありますが、ちょっと辛い生き方です。

 クライマックスは大学での講義の場面。
 アイヒマンの行為を「悪の凡庸さ」と命名し、無関心こそが最大の悪を為すのだと説く。
 人間の神髄は思考することにあり、思考を放棄してはならない。思考できない人間が残虐行為に走るのだ。
 師であるハイデガーの教えにも通じる考えです。実は回想シーンで数回、ハイデガーも登場したりしますが、あまりドラマの流れとは関係なかったでしょうか。
 バルバラ・スコヴァの堂々たる講釈が、本作のメッセージのすべてですね。
 感情的になって非難する相手に、冷静に辛抱強く説明していくハンナの姿は素晴らしいです。近年の日本政府の置かれた立場をちょっと連想してしまいました(でも中韓の皆さんは聴く耳持ってくれるのかな)。

 ラストは、ハンナ・アーレントは生涯、「悪とはなにか」について取り組んだ、と字幕で説明され、一人で思索に耽るバルバラ・スコヴァの姿を映して終わります。特に名誉回復が行われたと云う描写も無く、しばらくは非難に耐える生活が続いたのでしょうか。
 実にお堅く、真面目で、真摯で、骨太なドラマでした。




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