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2013年7月6日土曜日

海と大陸

(Terraferma)

 南イタリアの風光明媚な港町を舞台にした、難民と地元の人々との人情話です。最近のヨーロッパ映画には、この手のストーリーが多いように感じます。
 港町を舞台にしたヒューマンストーリーと云うと色々とありますが、近年だとアキ・カウリスマキ監督の『ル・アーヴルの靴みがき』(2011年)や、ロベール・ゲディギャン監督『キリマンジャロの雪』(同年)を思い起こします。あるいは先日観た、アンドレア・セグレ監督の『ある海辺の詩人/小さなヴェニスで』(同年)もか。

 本作のエマヌエーレ・クリアレーゼ監督は、これで長編四作目となる方だそうですが、私は本作が初めてとなります。
 出演している俳優さん達も、フィリッポ・プチッロ、ドナテッラ・フィノッキアーロ、ミンモ・クティッキオ、ジュゼッペ・フィオレッロと馴染みなし。
 本作が日本で公開されたのは、やはりベネチア国際映画祭(2011年・第68回)で、銀獅子賞(審査員特別賞)を受賞したからでしょうか(それにしては間が空いておりますが)。また、本作はこの年のアカデミー賞外国語映画賞イタリア代表作として出品されたそうですが、最終的な選考までは残りませんでした。
 
 「アフリカからの難民」を扱っているあたり、本作は『ル・アーヴル~』に似ております。
 しかし本作はイタリア映画(フランスとの合作)ですし、描かれる背景もシチリア沖の小さな島──ペラージェ諸島のリノーサ島──なので、悲壮な感じも、多少は明るく感じられました。
 地図によるとペラージェ諸島とはシチリア島の南方で、チェニジアの東方(リビアの北方)に位置しており、シチリアと北アフリカの中間あたりにあるので、アフリカからの難民が漂着しやすいようです。
 まぁ、イタリアと云えど現実が厳しいことに変わりは無く、難民達の行く末については何も保証したり、希望を抱かせるような描き方はしておりませんけれど。

 実は本作はかなりシリアスな内容でして、チラシやポスターに描かれたキービジュアルから予想したストーリーとは随分と異なるものでした。
 ポスターには、「小型船の上に水着を着た若者達が満載されて賑やかに騒いでいる図」が描かれています。まるで青春映画か、ミュージカル映画のような。
 題名も『海と大陸』ですし──原題の “Terraferma” は、ただの「大陸」なのですが──、楽しい地中海バカンスと云うか、レジャーを連想させる図であります。どう考えても、このポスターからは「楽しい夏」のイメージしか受け取れません。
 これでは「地中海の陽光きらめく小さな島を舞台にした人情話」を期待してしまうのもやむを得ないのでは(私のように)。

 ところがストーリーはもっとシビアなものでした。陽気なイタリア映画だなんてとんでもない。
 いや、あの「楽しかるべき海辺のレジャー」な場面も、あるにはあります。あれは主人公の叔父さん(ジュゼッペ・フィオレッロ)が経営する「海の家」──イタリアでも「海の家」って云うのかしら──が、観光客相手に出している周遊船の一場面。
 賑やかに音楽をガンガンかけながら、紺碧の海に繰り出して、皆で海に飛び込もうと云う場面。海中から船底を見上げるショットも美しいデス。

 その場面に限らず、美しい海は何度も背景に映りますけどね。
 しかし島の住民はそんなに浮かれているわけではない。そもそも観光よりも漁業を生業としている島だったのに、近年は不漁が続き、不景気も手伝って、島民の生活は逼迫してきている。叔父さんのように漁業を廃業し、観光客相手の商売に切り替える者も多い。
 しかし主人公の祖父エルネスト(ミンモ・クティッキオ)は昔気質の漁師であり、今も孫のフィリポ(フィリッポ・プッチーロ)を伴って漁に出ている。
 この孫であるフィリポ青年が本作の主人公。父親亡き後、母との二人暮らし。
 祖父は息子の一人を亡くし、もう一人の息子は漁師を廃業していることを苦々しく思っているようです。

 冒頭から、祖父と孫の青年が漁に出ているところが描かれます。あまり魚がかからないところへ持ってきて、海面を漂う難破船の破片に引っかかり、船はスクリューを傷めてしまう。
 修理代もかさむ上に、生活は苦しい。母ジュリエッタ(ドナテッラ・フィノッキアーロ)は自宅を改修して民宿を経営しようとするが、息子のフィリポには、このまま島で漁師になることなく、都会に出て別の道を歩んでもらいたいと思っている。
 叔父は祖父にも廃業を勧めるが、祖父は頑として応じない。しかし年齢から来る健康上の問題も見過ごせない。
 序盤から、どうにも問題が山積みで、あまり楽しい展開ではありません。

 それでも何とか乗り切って行こうと再び漁に出てみれば、魚ではなく、洋上を漂うゴムボートを発見してしまう。数日前に遭遇した難破船から脱出した人々なのか、仔細は不明ですが、とにかく当局に通報すると、「ボートには近づかぬように」との指示が出る。
 ところが難民の方が漁船を放っておかない。もはやボートはすし詰めで、今にも沈みそう。とうとう数人が飛び込み、強引に漁船めがけて泳いでこようとする。
 体力も尽きかけているのにこんなことをすれば、漁船まで辿り着く前に溺れかけるのも無理からぬ話です。如何に「近づくな。我々が到着するまで難民と接触しないように」と指示されたとしても、目の前で人が溺れ始めたらどうすればいいのか。

 古いタイプの海の男である祖父は当局の指示を無視して、自分から海に飛び込み懸命に救助してしまう。
 大部分の難民はそのあとにやって来た巡視艇が保護するものの、自分達が助けてしまった難民だけはそのまま、こっそりと島に連れ帰ってしまうことに。海の上で助けた命には責任を持つと云う「掟」を守っているようです。
 言葉の通じない黒人達の様子が不気味です。危害を加えられて、船を乗っ取られてしまうのではないかと云う心配がチラリとよぎりますが、そんな考えこそ偏見ですねえ。
 救助した者の中には若い母親と幼い少年もおり、母親の方は妊娠もしているらしい。男達の方は特に身内でも無いようで、船に乗っている内は助け合っておりましたが、港に着いた途端に母親と少年を残して全員が走って逃げていく。

 仕方が無いので祖父はフィリポの家に、難民の母親と少年を連れて行く。
 民宿として客も寝泊まりしている家のガレージに難民を匿うなど正気の沙汰ではないと反対されるものの、当局に通報するよりも先に妊娠中の母親が産気づいてしまい、それどころではなくなってしまう。
 結局、一晩中お産の手伝いで家族全員、一睡も出来ず、それでも何とか女児が誕生。
 しかしそれでメデタシとなる筈も無く、難民を幇助した廉で警察に目を付けられ、船舶免許の不備を突かれて営業停止。船は差し押さえられてしまう。
 如何に祖父が「溺れる者は見過ごせない」とか、「海の掟」だと訴えようにも、今の警察には通じないのが世知辛い。

 人助けをしているのに不幸になっていく主人公達の家族、と云うのが哀しいです。
 おまけに島民の中にも、難民に理解を示さないものもいる。観光業に商売替えした叔父さんにとっては、島のイメージを損なう難民は甚だしい迷惑なのだ。
 世代の格差が描かれている描写が興味深かったです。祖父を始めとする老齢の漁師達は、難民を見過ごせない、海上で見かけたら助けるのはやむを得ない、と云う姿勢であるのに対して、もう少し若いオヤジ世代は、生活第一で難民の所為で観光客が減ることを心配している。
 厳しい現実を凌ぐ為にドライに生きるべきなのか、良心に従った末に家族を苦境に巻き込むのか。

 人間の良心の問題は更にフィリポ自身をも直撃します。
 民宿に泊まってくれた都会から来た若い娘とイイ感じになりそうになるものの、夜の海に彼女と二人でボートで──他人のボートをちょっと拝借して──乗り出したところで、また難民と遭遇してしまう。
 今度はもっと切羽詰まっており、夜の闇の中からいきなり現れ、ボートの明かりめがけてバシャバシャと無言で(死にものぐるいで)泳いで取り付いてこようとする。これはかなり怖い。ホラー映画のような描写です。
 しかしそこからがまた怖ろしい。ボートが転覆しそうになる危険もあって、フィリポは取りすがる難民達をオールでブチのめしてしまう。これはちょっとヤリスギですねえ。

 結局、彼女にいいところを見せようとして、他人のボートを盗んで海に出たので、警察に通報するわけにも行かず、溺れている人々を見捨てて逃げ出してしまった負い目だけ背負い込み、彼女との仲も気まずくなって、軽蔑されて巧くいかないという負のスパイラル状態。若さ故の過ちだけでは済まないことに。
 更に翌朝、自分が見捨ててしまった難民達が、観光客の居るビーチに土左衛門となって流れ着くと云う事態に発展します。何人かまだ息のあるものを観光客達が懸命に助けようとしているのを見て、更に自己嫌悪に陥っていくフィリポ。
 ほんの少しだけ、本作には昔懐かしいイタリアの青春映画的な雰囲気もあったのですが、もはやそれどころではなくなってしまいました。

 島の難民に対する取り締まりが強化される中、家のガレージに匿った親子だけは助けようとする祖父。とにかく難民には家から出て行ってもらいたいだけなのに、「あなたは命の恩人です」的に感謝されてしまい、無下に出来なくなる母(生まれた女の子に「あなたの名前を」と付けられてしまっては放っておくことも出来んか)。
 とりあえずこの女性の旦那がトリノに出稼ぎに出ているらしく、「トリノまで行きたい」と云う願いを叶えてやろうとするものの、島のフェリー乗り場では検問が行われ、島から出ていくことも出来なくなる。

 ちなみに劇中に登場するアフリカからの難民は、エチオピア人であると説明されています。かつてエチオピアがイタリアの植民地(イタリア領東アフリカ)であったことを知らないと、何故彼らがイタリアを目指すのかピンと来ないかも知れません。
 これは『ル・アーヴルの靴みがき』に於いて、ガボンから難民が来るのと似てますね。
 但し、本作ではエチオピア人は彼らの言葉──公用語はアムハラ語だそうですが、劇中では字幕しか読んでないので、何語を喋っているのか判りません(汗)──を喋っていて、イタリア人とは意思疎通が困難らしい。これも植民地だった期間が短かった所為でしょうか。このあたりの事情は日本人にはイマイチ判り辛いです。

 八方塞がりとなったとき、それまで沈み込んでいたフィリポが唐突な行動に出ます。祖父達の隙を突いて、親子を連れ出し、差し押さえられた漁船に乗り込んで、そのまま単独で出港していく。良心の呵責に耐えきれなくなったのか。
 しかし祖父も母も残したまま、独りで船を操り、果たして本土まで辿り着けるのか。
 難民の親子も無言でフィリポにすべてを託したように見受けられますが、この先どうなるのかまでは描かれません。

 地中海と云えど広大な海原に、小さな漁船が漂うように進んでいく。陸の姿はまだ見えず、海の真っ只中で……そのままエンドです。
 何の解決策も示されず、ただ静かな潮騒とギターの劇伴がもの悲しい。
 主人公の決断と選択が描かれたことが僅かながらの救いではありますが──おかげでそれほど後味は悪くありませんが──、それでもやはり厳しい状況であることに変わりは無い結末でした。


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