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2013年6月9日日曜日

ある海辺の詩人/小さなヴェニスで

(Io Sono Li)

 イタリアの小さな漁師町を舞台に、中国からの出稼ぎ労働者の女性と、旧ユーゴスラビアからの移民である老漁師の交流を描く心温まるヒューマンドラマです。地味ですが美しい映画でした。
 「イタリア人と中国人」と云う組み合わせにちょっと意表を突かれました。
 本作はイタリア映画(フランスとの合作)であり、監督のアンドレア・セグレはドキュメンタリ映画の監督だったそうですが、これが初の劇映画だとか。長く移民問題のドキュメンタリを撮ってきた経験が本作にも活かされているようです。脚本も御自分で書いておられます。

 主演である出稼ぎ中国人女性シュンリー役に、チャオ・タオ。ジャ・ジャンクー監督の『長江哀歌』(2006年)で、ヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞したほどの女優さんであるそうですが、残念ながらスルーしております(と云うか、ジャ・ジャンクー監督作品はどれもスルーしている……)。
 頑固な地元漁師ベーピ役が、ラデ・シェルベッジア。クロアチア出身の俳優さんで、色々と私の知っている作品にも脇役で出演しておられますが、どこに出てきたのか印象が薄いデス。例えばクリストファー・ノーラン監督の『バットマン ビギンズ』(2005年)では、「ホームレスの男」役(云われてみればバットマンを目撃するホームレスがいたような……)。

 物語の舞台となる漁師町「キオッジャ」は、イタリア半島の付け根あたりにあり、ヴェネツアからも近いそうです(ヴェネツィア県にある)。アドリア海に面していて、海は遠浅の干潟(ラグーナ)となっている。
 そのまま海を直進すればアドリア海の反対岸には、スロベニアやクロアチアといった、旧ユーゴスラビア連邦だった国々があります。
 「小さなヴェニス」と呼ばれるだけのことはあり、本土から橋でつながった洋上に浮かぶ、中世イタリアさながらの古い街並みは味わい深いですねえ。ヴェネチアのように宗教的な建築物がないので、観光客は少ないようですが、その所為で古いイタリアの街並みが保存されているように見受けられます。
 海抜零メートルなので、天候が悪かったり、潮の干満の具合によっては、船着き場から道路を渡って、海水が住宅の一階まで流れ込んでくる。床上浸水は当たり前のようです。

 邦題の「ある海辺の」とは、このキオッジャのことですが、ではそれに続く「詩人」とは誰か。
 劇中では、冒頭から中国の詩人、屈原(くつげん)のことが紹介されます。中国戦国時代の楚の政治家であり、詩人だったと云う歴史上の人物。
 屈原を奉るお祭りでは、蓮の花の形をした小さな紙製の灯籠を水面に浮かべる風習であると云い、ロウソクを立てた蓮型の紙灯籠が、淡い赤色に光ながらユラユラと水面を漂う様は、なかなか幻想的です。
 ただ劇中、何度か屈原の詩が詠まれるものの、詩そのものには特に重要な意味は無かったのが惜しいところでした。ロマンチックな雰囲気はあったのですが。

 主人公であるシュンリーは始めは大きな縫製工場のようなところで働いています。人件費の安い労働力として、こき使われているようです。縫製工場がどこにあるのか説明はありません。イタリア国内のどこか。
 劇中では、このあたりの事情については詳細に語られません。借金があり、その返済の為に働くのだと説明されますが、借金の総額が幾らなのかとか、いつ頃に返済完了する予定なのかとか、判りません。本人も判っていないようです。
 雇用している側が、「その時が来たら教えてやる」と云って、宿舎に寝泊まりさせて大勢の女性達と一緒に働かせているのが実に怪しい。そりゃ絶対に搾取されているでしょう(かなりブラックな企業のようです)。
 それでも幼い息子を郷里の祖父に預けて働くシングルマザーとしては、不平はこぼせない。

 ところがある日、いきなりシュンリーは配置転換を命じられる。新たな勤務地がキオッジャ。
 この小さな漁師町の一角で営業しているオステリアが、新たな職場であり、縫製工場から一転してカウンターに立って接客するよう命じられる。なかなか無茶な業務命令です。
 イタリアの「オステリア」とは、日本の居酒屋と似て異なるものであるそうな。日本にあるイタリア料理店の中には「オステリア・ナントカ……」と名をつけている店もあるようですが、劇中で描かれるオステリアは、イギリスのパブのようなものにも似ていました。

 漁師町ですから、日々漁から帰ってきた男達が立ち寄り、一杯飲みながら軽食と談笑に花を咲かせる地元の社交場のような雰囲気です。大衆食堂みたいなものでしょうか。しかもちょっと狭い。
 店舗自体は古くから街にあるもののようですが、いつの頃からかオーナーは中国人になっている。縫製工場を経営している企業が多角経営しているのでしょうが、これまた実に怪しい。
 劇中ではイタリア人漁師達が中国人をあまり歓迎していない旨の発言をしております。あからさまに侵略者扱いしている者もいる。不景気になると外国人を排斥しようとするのは、何処の国も同じのようです。
 笑えるのは、イタリア人から見ると、中国人が何をしても「それはマルコ・ポーロ仕込みだ」と云われることか。

 馴れない接客業に戸惑いながらも、シュンリーは何とか言葉を覚え、ワインの銘柄を覚え、漁師達と意思疎通を図りながら、ツケの取り立ても行えるようになっていきます。
 あてがわれた狭い宿舎では、自分と似たような境遇の中国人女性と同室になり、多少は言葉を交わすものの、互いにプライベートには深く踏み込まない。
 時々、同室の女性は海岸で一人で黙々と太極拳を練習しております。イタリアの海岸で太極拳と云うのが、なかなか異文化的な表現でした。

 シュンリーと親しくなるのが、オステリアの常連の一人である漁師ベーピ。高齢でありながら、息子家族との同居を拒み、一人暮らしを続けて漁に出ている男です。亡き妻の遺した鍋を愛用しながら、息子が買ってあげた電子レンジは使い方が覚えられずにホコリを被っている。
 自身も旧ユーゴスラビアからの移民なので、同じ異邦人としてシュンリーに親近感が湧いたのか。
 「三〇年いるが俺も外国人だ」とか、「俺も共産主義者だったたよ。チトーが死ぬまでは」なんて云っております。
 本作の解説記事に拠りますと、ラデ・シェルベッジアはベーピ役を演じるに当たって、難しい「イタリア語のキオッジャ訛り」を完璧にマスターして喋っているそうですが、そのあたりのヒアリングはサッパリですのでまったく判りませんです。じぇじぇじぇ。

 本作ではドラマが進行していきながらも、キオッジャの街並みと、ラグーナの海が実に美しく描かれておりまして、この風景はなかなかのものです。波は穏やかで、海鳥も沢山飛んでおり、街の背後にそびえる山々も美しい。
 まさに一幅の絵画のようです。背景の美しさが本作の見どころのひとつでしょう。

 シュンリーとベーピは異邦人同士で親しくはなりますが、年齢的にも離れており、恋愛関係には発展しません。
 ところが漁師仲間の目からすると、そうは映らないらしい。「ベーピが中国人にたらし込まれている」ように見えるようで、「奴等はイタリア人と結婚して、その資産を奪っていくつもりなんだ」とか云われ始める。
 ベーピ自身は、自分はまだイタリア人になりきれていないと思っているのに、漁師仲間からは既に同胞認定されているのが可笑しくも哀しいです。
 しかしその前に、中国人と云うと何故、そんなネガティブな発想が先に来るのかが問題であるような気がします。世界的に中国人の評判が悪いのは何故なのか。
 個人としての中国人には、まったく問題が無く、正直で働き者の女性として描かれているというのに。

 オステリアに悪い評判が立ち始め、オーナーはシュンリーに「客と親しくするな」と厳命を下すのがお約束的展開です。しかも「命令を守らないと借金をリセットするぞ」なんて脅しもかける。いや、相当ブラックな企業です。
 劇中では、シュンリーがこの中国人オーナーに唯々諾々と従っている理由が判りません。借金返済のシステムも不透明ですし。事情を尋ねるベーピにも理解できない。
 西洋人には伺い知れない東洋の神秘と云うか、謎めいた部分として描かれております。でも日本人の目からしても如何なものかと思いますねえ。
 シュンリーは特に愚かな女というわけでもなく、聡明で働き者であるのに、意味不明の因習に縛られて身動きできないと云う風に描かれており、これもまた異質な文化を感じさせてくれます。

 意地の悪い中国人オーナーの所為でシュンリーとベーピの仲は引き裂かれるわけですが、それで片が付くわけではない。ベーピは中国人を揶揄する地元の男と殴り合いの喧嘩まで演じてしまい、騒ぎの原因となってしまったことを苦にして、シュンリーは職を辞する羽目になる。
 元の縫製工場に戻され、それからベーピがどうなったのか判らないままに、再び元の仕事を続けるシュンリーですが、しばらくしてから故郷に残してきた息子が突然、現れる。
 借金返済の暁には郷里から息子を呼び寄せ、母子が一緒に暮らせるようになるのがシュンリーの只ひとつの望みであったので、これは望外の喜びです。しかしその理由が判らない。

 雇用主は「借金は返済された」と告げるのみ。どうやら誰かが自分の知らないところで残りの借金を清算してくれたらしい。
 不透明な返済システムですが、一応、約束はちゃんと守られるあたりが不思議です。幼い息子を中国からちゃんと連れてきてもらえるし。
 シュンリーは恩人が誰なのか突き止めようとしますが誰も知らない。工場の方では記録に残しておらず、郷里の祖父に尋ねても判らない。
 唯一の心当たりはキオッジャにある──と云うか、そこにしかない──ので、休暇を取ってシュンリーは再び、あの小さな漁師町に出かけて行くのですが……。

 結果的に、恩人は当時同室だった女性らしいと判るものの、既に仕事は辞めていて行方は判らない。この女性については、「海岸で太極拳をしていた人」以外にどんな人だったのか手かがりが全くないので、何やら狐につままれたような感じです。
 子供に会いたいと漏らしたことはあれど、それだけでここまでしてくれるものなのか。
 あるいは、金を工面してくれたのはベーピであって、この女性を通じて清算が行われたのか。すべては藪の中であり、確認はもう出来ません。
 何故なら、ベーピにもまた逢うことが出来なくなっていたから。

 オステリアの常連漁師と再会し、彼の行方を尋ねたところ、返ってきたのは「ベーピの訃報」。シュンリーが去って間もなく、身体を壊して亡くなったという。
 遺書めいた手紙だけが一通あり、それを読むが特に借金の清算については触れられておらず、ただ自分が漁に使っていた小屋を譲るので、「いつか話してくれた詩人と同じ葬儀を頼む」と書かれていただけ。
 故人の意思を尊重し、小さな漁師小屋に火をかけるシュンリー。煙がベーピの葬送のようにアドリア海に立ち上っていく……。
 詩的な場面のまま、静かにエンディングを迎えます。事情は最後まで判らないままですが、特に判らないから不都合があるとは感じられません。美しい風景が抒情的な、味わい深いドラマでした。


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