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2012年2月26日日曜日

ヤング≒アダルト

(Young Adult)

 一七歳の私にサヨナラは、まだ云えない。いや、でももう三七歳なんだし。いい加減、現実を見ようよ。

 シャーリーズ・セロンが三七歳バツイチ、恋人なしの自称作家を演じております。
 今年(第69回・2012年)のゴールデン・グローブ賞で、コメディ・ミュージカル部門の主演女優賞候補にもなっておりました。『おとなのけんか』のジョディ・フォスターやケイト・ウィンスレットに対抗していたワケですが、受賞の方はミシェル・ウィリアムズ(『マリリン 7日間の恋』)に。
 監督はジェイソン・ライトマン、脚本はディアブロ・コディと云う、『JUNO/ジュノ』(2007年)のコンビですね。ちょっとシニカルなコメディ映画に仕上がっておりますが、あまり笑えんか。イタいし。

 しかし自称は作家と云っても、実はゴーストライター。もっと正確を期するなら、ティーン向け青春小説のネタ出し要員というのが正しいようです。
 出版社と契約し、小説のたたき台となる脚本──のようなもの──を書いて、それを元に正規の作家が完成品に仕上げるらしい。表紙には作家の名前しか印刷されず、自分の名前は裏表紙の折り返しに、小さく協力者として記載されるだけ。どの程度、作品に貢献しているのか劇中では明示されませぬが、御本人にしてみれば、ほぼすべて自分で書いているようなものだと云い張っています。
 劇中では「ティーン向けの青春小説を書いてるの」と云うと、「バンパイアが出てくるヤツ?」と尋ねられる下りがあって笑えました。やはりアメリカでは、猫も杓子もバンパイアなのか。バンパイアの登場しない青春小説の方がもはや珍しいのか。なんかヨモスエな。

 昔は日本でもティーン向けの小説を「ヤング・アダルト」と称していた時期がありました。一応、十二歳から十九歳までという対象年齢があるそうです。児童文学を卒業した世代が次に読むような位置づけであったと思いマスが、どうにも「ジュブナイル」とか「ライトノベル」などと云う呼称と区別が付きづらい。
 これは日本だけのことなんですかね。欧米は今でも「ヤング・アダルト」一筋で、「ライトノベル」なんてジャンルは無いのか。ラノベもヤング・アダルトの中に含まれるのかしら。
 すると本作に於けるシャーリーズ・セロンはラノベ作家──のゴーストライター──なのか。

 なかなかに夢も希望も無い、冴えない日常が序盤で紹介されます。とてもじゃないけど「キラキラ輝く未来の光」なウルトラハッピー青春小説を書いている人には見えません。もうバッドエンドに黒く塗りつぶされる一歩手前のような為体。
 作品の方も、数年前は絶大な人気を誇ったシリーズらしいが、今やマンネリ化して人気も下降の一途を辿っている(次の締切が最終巻らしい)。でもそれって書き手の生活態度にも問題があるような気がするのですが……。

 そこへあるとき、高校時代の恋人バディ(パトリック・ウィルソン)から、子供が生まれたという内容のメールが届く。フツー、別れた元カノにそんなメールを送りつけるものか。これは新手のイヤミか何かか。
 しばらく考えていたシャーリーズはやおら荷造りして、帰郷の支度を始める。
 その真意は那辺にあるのか。

 序盤のだらしない格好と、気合いを入れて化粧した際の落差があまりにも激しく、さすがは大女優シャーリーズ・セロンであると目を見張りました。
 それにしてもやはり最初に着ていた「キティちゃんのTシャツ」というのがインパクトが大きいデスね。まさかオスカー女優がそんなものを着るのかと目がテンになりました。アメリカでもキティちゃんは人気があるのですねえ。
 ライトマン監督としては、「三七歳でキティちゃんを着る女」に、「大人になりきれていない少女感覚の女性」というニュアンスを持たせようとしているように見受けられましたが、日本じゃどうなんでしょ。それほど大したことでは無いような気もします。
 日本で「イタい女」を表現するなら、キティちゃんではまだ手ぬるい(笑)。
 逆に、この演出に感じるところが少ないと云うことは、日本人全体がヤング・アダルトなのだとも考えられますが(私の偏見か)。
 サンリオには是非とも、シャーリーズ・セロンを起用したCMを制作して戴きたい。

 さて、故郷の田舎町に到着したシャーリーズは、偶然バーで同窓生に出会う。かつての同級生マット(パットン・オズワルト)は、高校時代の陰湿なイジメによって身体に障害の残る男となっていた。
 アメリカの田舎町は今でもゲイには不寛容であるという描写が垣間見えます。実際にゲイではないのに、疑惑を持たれただけで殴る蹴るの暴行を受けるとは。
 パットン・オズワルトは、コメディ俳優ですが、今回はあまり笑いを取ること無く、オタク趣味ではあるが誠実な善人という役を好演しております。
 それはいいのですが、趣味に言及した際の会話がちょっと興味深かったデス。

 「今でもキャラクターのフィギュアを作るのが趣味なんだ」
 「女の子の?」
 「僕は変態じゃない」

 えーっ。アメリカではそうなのか。フィギュアと云うのは、美少女キャラのものだと思っていたのに。ちょっとショックでした。実際、後でパットンの部屋の様子が映りますが、確かに棚に並んでいたのは「アメコミ・ヒーロー系」とか「G.I.ジョー系」のフィギュアばかりでした。
 うーむ。やはりこの映画は日本人の目から見ると、手ぬるいところが目立ちますなあ。
 と云うか、ゲイ疑惑は正しいのでは。ストレートなオタク男性なら、棚にはちゃんと「ヨメ」を飾れ(これも偏見か)。

 とりあえず地元に情報提供者の味方を作り、元カレ攻略の悪巧みを進行させていくシャーリーズ。彼女の目的は、元カレと復縁することだった。当然、その結果として今の彼の家庭は破壊される。
 「止めた方がいい、今さら幸せな家庭を壊して何になる」、なんぞと云う至極ご尤もな忠告は聞く耳持たず。
 それはいいのですが、どうしても私は主人公の計画には、もっと先があるものだと思い込んでおりました。だってシャーリーズ・セロンなのに、計画が「単なる略奪愛」で終わる筈が無い。きっと更にその先があって、元カレと復縁したあとに、手ひどく振って復讐が完成するのであろう……と思っておりました(何の根拠も無く)。
 まさか復縁そのものが目的だったとは。

 本当に、元カレと縒りを戻し、青春時代の輝きを取り戻そうと考えていた「だけ」かよ。
 真意が明らかになった瞬間、やっと私にも「これはただのイタい女なのだ」と実感できました。
 もっと深謀遠慮があって、ダークな復讐計画があるのだろう……なんてとんでもない。ただの中二病ではないか。
 しかも元カレは、立派な男で浮ついたところなど無く、いかにシャーリーズ・セロンが誘惑しようとビクともしない。奥さんと子供一筋。
 高校時代の行き違いは不幸ではありましたが、それはもはや過去のことであり、今の自分には守るべき家庭がある。いや、非常に立派です。

 ひときわ主人公が他人の幸福を妬む哀れな女であることが強調される。
 元カレのホームパーティで爆発するシャーリーズの癇癪は、見ている方が居たたまれない気持ちになります。その意味では、シャーリーズ・セロンの起用は正しいのか。
 そのあとで玉砕して尾羽打ち枯らし、ボロボロになってパットンに慰めてもらうシャーリーズの姿は実に哀れです。下着姿でヌーブラを晒して立ち尽くす姿に、大女優の貫禄を見ました。
 カッコ悪い姿も堂々と演じきるのが見事です。

 大人になることの条件のひとつに「自分を客観視できること」と云うのがあるのでしょう。
 いつまでも自分本位で、理想が実現しないことにダダをこねていても仕方が無い。どこかで妥協しなければならん。
 大抵の青春映画では、そっちの方が「詰まらない生き方だ」みたいに描かれたりしますが、本作では逆になっているようです。実にシニカルです。夢を追い続けるのもほどほどに。

 しかし他人から見れば自分もまた羨ましがられる存在なのだ、と判るのが僅かな救いか。
 パットンの妹から「あなたに憧れていた」と打ち明けられる。他人から見ると、自分は田舎を出て都会で成功した素敵な女性に見えるらしい。
 少し自信を取り戻し、妥協はするが前向きに生きていこうという姿勢を崩さないのはいいことデス。
 締切の迫った青春小説も、大団円を迎え──いきなり主人公の恋人を作中で殺してしまって、ヒロインは新たな一歩を踏み出すという結末にしてしまったのには笑いました。
 人生はこれからだ。未来は常に輝いている。まぁ、ぶつけた車はヘコみまくりで、冴えないところもすぐには変わりませんが。多分、きっと、大丈夫。


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